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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「思考のレッスン」 その1 丸谷 才一

2017年03月15日 00時08分12秒 | 文章読本(作法)
 「思考のレッスン」 その1 丸谷 才一 文藝春秋 1999年

 「文章は頭の中で完成させよう」  P-240

 「ものを書くときには、頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終わってから、それを一気に書け。それから次のセンテンスにかかれ。それを続けていけ。そうすれば早いし、いい文章ができる」 

 センテンス途中で休んで「えーと・・・」なんて考えて、また書きだす人がいるでしょう。あれはダメ。とにかく、頭の中でワン・センテンスを完成させた上で、文字にせよ、ということなんです。

 具体的に言うと、
 「親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしているマル」
 という文章を頭の中でつくる。頭の中ででき上がったところで、初めてそれを文字にする。
 「親譲りの無鉄砲で」というところまで書いて、そこで休んで、「うーん、さてどうしようかなあ・・・・、『子供のときから』にしようか、『五つ、六つのときから』にしようか」などと考えてはならない。「『損ばかりして』か『損をしてばかり』か・・・」と迷ってはいけない。

 そういったことを考えるのが文章の工夫だと思っている人がいるけれども、あれは間違いです。単なる時間の浪費にすぎない(笑)推敲したければ、書いてしまった上で推敲すればいいんですね。とにかくワン・センテンスを頭の中で全部つくってしまってから、それを文字にせよ。


「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一

2017年01月27日 00時21分31秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 文章を書くということの中には、「嘘をつく」ということがはじめから折り込まれています。にもかかわらず、事実に忠実になろうとするあまり、失敗する人は多いようです。とくにエッセーというと、見たり聞いたりしたこと、つまり事実を書くものと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、これは間違いです。虚構はあっていいのです。
 人に読んでもらう以上、事実を曲げ、装飾を加え、話を作り込んでいくことは、むしろ礼儀だということです。ラッピングをせず、リボンもかけず、むき出しのまま相手に渡す無礼――、これはぜひとも避けなくてはなりません。P-242

 同僚の美術の先生に聞いた話です。ギリシャ彫刻に躍動感はあるが、蝋人形にはそれないというのです。むしろ死人に見えると。なるほど、そういえば蝋人形はいかにも生彩を欠いています。

「蝋人形にはたとえばマリリン・モンローというモデルがあって、それと比較されてしまうからじゃないですか。その点ギリシャ彫刻はモデルと比べようがないからずるいですよね」

 私がいうと、美術の先生はそうではないといいます。いくら生彩を欠いているといっても、リアリティということでいうなら蝋人形のほうがまさっている。それにギリシャ彫刻のあの手足のバランスでは歩くことさえままならないだろう。にもかかわらず、ギリシャ彫刻のほうが生き生きしていて、蝋人形は死んでいる。
 抽象や捨象がないからだそうです。
 よくいわれることですが、日常会話を録音し、それをそのまま会話文として筆記しても、逆にリアリティは損なわれます。小説にそのまま用いることはできません。どうも、それを同じことのようです。
 大いに強調すべきところを強調し、省くところは省く。ときにはあらぬものをつけ加え、あるべきものを無視する。文章同様、彫刻にもそうした手入れ、いわゆるデフォルメが必要だということなのでしょう。P-243

 

「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一

2017年01月25日 00時04分49秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年


いい文章をひたすら肌で感じる経験が、一方ではどうしても必要です。文章には、呼吸とか間合いとかいうよりほかにない、測りがたいものがたしかにあるからです。P-186

 とくに書き手の「思い」が曲者です。出来事の描写をいくら精密におこなってもまだ許されますが、「思い」を書き過ぎたときには、人はもうその文章を読まなくなってしまいます。主観を押し付けられた気分になってしまうからです。P-193

「膨らみのある文章」とは、つまり「読み手が想像の世界に遊ぶ余地を残している文章」ということになります。
 書き過ぎれば、読み手の出る幕はなくなります。その文章は字面どおりの意味を表明して終わります。しかし、書かれていないことがあれば、そこには読み手が想像力で補うしかありません。文章は逆に多くのことを語りはじめます。膨らみが生まれるのです。P-201

(例文)今世紀に入って世界はますます混乱をきわめている。しかし、私たちは人類の全英知を集めてこれに立ち向かい、いつか必ず、世界平和を実現しなければならない。

 たとえばこうした文章は、子どもが書いたものというならともかく、大人の書き物としては認めるわけにはいきません。ここには、「書くに値すること」が何も書かれていないからです。
 何か読む以上、私たちはそこに発見を求めます。知らなかったこと、気づかなかったこと。つまり新しさを求めるわけです。だとすれば、書くべきことも決まってきます。自明のものではない、何か新しいこと。それしか書いてはならないのです。
 何を書こうと人の勝手じゃないか。もちろんそのとおりでしょう。手帳に書く。日記をつける。読書ノートをこしらえる。自由にやっていいのです。しかし、人に読んでもらうことを前提に何かを書くなら、話は違ってきます。「世界平和を実現しなければならない」というような、ある意味わかりきった、それでいてどこか絵空事のような話を書くわけにはいきません。P-214

 他人が書いたものを読むというのは、エネルギーの要る仕事です。文の長さ、文の運び、呼吸、言い回し、どれも自分のものと違うわけですから、それに合わせてこちらがチューニングし直さなければなりません。面倒な仕事なのです。
 したがって、よほどうまくやらないと、人に自分の文章を読んでもらうことはできません。


「書く力は、読む力」 その4 鈴木 信一

2017年01月23日 00時06分18秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その4 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 人は誰でも固有の因果律を持っています。発想のパターンが一人ひとり違うのです。別の言い方をすれば、人は身の丈に合った発想しかできないということです。
 ところが、その因果律は破られるときがあります。他者に触れたときです。たとえば、予期せぬ言葉を友人から投げられ、私たちは発想のくびきからふいに解放されたりします。
 ものを読むときも同じです。表現こそは他者なのであって、その他者としての表現に接したとき、私たちはかえって発想の自由を得ます。ちなみに、ここでいう「自由」とは、何でもありの自由ではありません。「固定的な発想から抜け出る」という意味での自由です。(中略)
 私たちは「読み」を自分に都合よくおこないがちです。わかるところだけわかればいい。共感できるところだけ拾えばいい。しかし、これでは自身の因果律を破ることはできません。読書による成長は見込めません。「書きたいことを書くのではない」ということはすでに述べました。「読み」も同じです。読みたいことを読むのではないのです。P-166

 誰かに読んでもらいたい。気づいたことをいってほしい。しかし、その誰かが、しかも他人がちゃんと読んでくれるかはわかりませんし、読んでくれたとしても、正直なことはいってくれません。
 つまらない。日本語がそもそも変だ。そう心では思っても、本音は、二、三の褒め言葉に包んで遠慮がちに届けられるだけです。
 自分の文章は、やはり自分で読むしかないのです。
 純然たる「読者の目」を差し入れることはできないにしても、書いたものを精査することはできます。P-169


「書く力は、読む力」 その3 鈴木 信一

2017年01月21日 00時33分58秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その3 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 書くことに必要な要件は、読むことです。本をたくさん読むということではありません。自分がたったいま書いたものを読んで、何を書き、何をまだ書いていないかをしっかり見きわめることです。そうすれば、書くべきことは見えてきます。もっといえば、書いてはいけないことが見えてくるのです。P-148

 文章というのは、書きたいことを書くものではないということです。「こう書いた以上は、次にこう書かなきゃまずいんじゃないか?」――そうやって先に書いてしまったことを振りかえりながら、書きたいことではなく、書くべきことを書く。それが、書くことの基本操作です。
 したがって、自分の書いた文章をちゃんと読めない人は、ちゃんと書けないということになります。P-151

 じつは「リレー作文」には、書くことの原理的な秘密がいくつか隠されています。
 まず一つは、「書き継ぐことで書くべきことは見えてくる」という原理です。これはすでに述べたことですが、不足が埋まることが永遠にないなら、書くべきことも永遠になくなりません。そして、そうやって文をつないでいけば、必ず何かの世界が切り開かれます。ただ、問題はそのつなぎ方です。
 前後に矛盾がなければいい、整合性が保たれればいい、たしかにそのとおりなのですが、その結果、話が平凡な因果律の中に収まってしまうなら、その話は退屈なものになるでしょう。一人で文章を書き綴るとき、私たちは得てしてそういう毒のない平凡に陥ります。P-163