絵本と児童文学

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街頭絵本読み聞かせ

2008-04-26 14:39:58 | 子ども・子育て・保育
 今日のNHKの「おはよう日本」で、街頭絵本読み聞かせをしている人の紹介があった。保育士(男性)が、夕方駅のわずかの空間を利用して行き交う人に、絵本の読み聞かせの活動をしているのだ。大人や子どもづれの親が、立ち止まって耳を傾けていた。活動場所からして、対象は子どもというより大人を視野に入れている。
 その昔、街頭紙芝居が盛んだったことからすると、絵本の読み聞かせを街頭でやるということも考えられることだ。大道芸、ストリートミュージックなどが珍しくなくなったので、「出し物」を変えたものとして受け入れやすいかも知れない。
 もともと日本の道は、子どもが遊び、人々が行き交いコミュニケーションをとる機能を持っていた。60年代から道路が車中心になったのと、暗に政治的示威活動抑制のために道路使用の規制が始まった。とくに大都市の道路は、整備されていくほどにすばやく通り過ぎる無機的空間になった。
 さて、絵本の読み聞かせに耳を傾けるのは、絵本は大人が内に持っている子ども性を呼び覚ましてくれるモノだからだ。そもそも大人は成熟して頂点にいきつくのではなく、年輪のように内に子ども性を持っているものである。絵本の語りを受け入れることは、大人の日常性をしばし置いて、誰もが持っていて気づかない自分の子ども性と出会える幸せな時間になる。知らない人に提供される、絵本を介しての安心するコミュニケーションでもあるのだ。
 それに現代社会は、文化が大人と子どもの境界がなくなっている側面もある。同時に優れた絵本は、子どもを対象として制作したものでも大人にも満足を与える普遍的力を持っているのである。

 図書館等での母親を中心にした、読み聞かせサークルが盛んである。子どもの文化財のあり方に、大人が向き合うことは国民的教養がにじみ出ていることではないか。またこういった活動は、活字離れが著しい中、子どもの生活に読書が位置づく環境作りにもなるだろう。
 テレビ、ビデオなど完成度の高いビジュアルな文化との接触が多くとも、絵本という肉声を通した、いわばアナログなモノがすたれないで力を持つものである。それは人と人のコミュニケーションを求める、人間としての自然な行為でもある。

 テレビで紹介された男性は、張上げた高めの声であった。声の表現、間などの語りの総合的表現を、今後熟達していくだろう。なにはともあれ、街頭に飛び出して絵本を介したコミュニケーションをしている若者に、拍手を送りたい。
 それに保育は自分の表現だけではなく、普通では見逃しがちな子どもの成長をコツコツと見届ける地味な営みでもある。若い保育士が、保育園でも子どもに安心を与える仕事を蓄積していくことも期待したくなったのだ。