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自分の「終末時計」が気になる?

2020-02-03 20:40:06 | 身辺のこと・自然
 このところのウォーキングは住宅街の20分コースばかりになっている。昨日と今日は、最近歩いていない30分の林コースのウォーキングをした。林の中の獣道のようなところに足を踏み入れるのはなかなか良いものだ。それに折り返し地点としている所へ行くための自分だけの道を10メートルぐらい作っている。しばらくそこを歩いていなかったので、枯れ葉に埋もれてなくなっていた。また道らしくしようと思い、それを励みに30分コースに行くことにしよう。
 昼頃歩くと晴天のときは、西側の雪を頂いた山々の稜線がきれいで、少しだけ立ち止まって見いるのも楽しみの一つである。
 
 地球環境の危機あるいは戦争勃発の危険を「終末時計」として時計で表すことがある。地球の危機に切迫感を感じさせるのによい方法である。それを人間の命に例えると、寿命を予測するようで、心穏やかでなくなる。

 しかし死とかかわるビジネス等では「終活」といって取り組んでいる。数カ月前その業者が「フェア」開催として、それへの誘いの電話があった。家族が登録したようで、明るく気風のよい調子の誘いにはひるんでしまって、話には乗らなかった。
 「終活」は人生のしまい方として、自ら積極的にやっている人もいる。しかしぼくにはできない。やり残していることが多いと思っているのか、まだ生活、活動中と思っているのか、「終活」というくくりでは考えたことがない。
 60歳代の時、「エンディングノート」というのを渡された時がある。受け止められなくて内容もみなかった。世間からそうみられるだ、と思ったものだった。
 かつての知人たちも少しずつあの世へと旅立っている人もいるが、自分の「終末時計」はどのぐらい残っているかは知らない。知らないから今を送れるのであろう。

 からだの衰えは自覚できる。物忘れは、少しずつ気づいたときに対策を立てて、生活に支障ができないようにしている。それに認知症についての解説のテレビを見たり本を読んでも、客観的に知識を得て理解しようとする。
 しかし1月11日の「NHKスペシャル・認知症の第1人者が認知症になった」は、認知症の研究と臨床を仕事にしている医師が自らが認知症になったドキュメンタリーを見たが、怖かった。認知症の当事者が認知症について講演をしていたし、実の娘の支援・介護も印象に残った。ドキュメンタリーゆえに、自分のことのように見てしまったようだ。
 認知症は予想はつかないものなので、予防によさそうなことはとにかくやってみよう、と思っている。

 ラジオで和田秀樹(精神科医)さんが、瀬戸内寂聴(1922年生まれ 98歳)さんと橋田壽賀子(1925年 95歳)さんを例にして、書くことはいいことではないか、という話をしていた。この2人の文筆家の例を一般化するんのは無理があると思いつつ、刺激を受けたのか、こうしてささやかなコラムを書くのを再開した一因になったようである。

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