藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

10年前がよみがえる

2021年03月11日 | 雑感
 3月11日、東北大震災の日。

 あれから10年経ったのですね。

 母が生きている時は、3月10日。 東京大空襲の日です。

 東京のど真ん中に住んでいたので、すぐ近所にB29が落ちた話や、10日には家を捨てて避難する際に、池の中にお釜に入れたお米を沈めたことや、新宿で土管の中から猛火に包まれる電車を見た話しなど、毎年まるで昨日のことのように語っていました。

 そして私は1月17日の阪神淡路大震災。3月11日の東日本大震災。

 阪神淡路の震災の年に、初めて市議に立候補。
 東北の震災の年には、市長に立候補。  そんな巡りあわせもありました。

 3月11日は市役所庁舎にいて、道路の改良の話を担当職員としていました。

 経験したことのない揺れに、来庁している市民の方たちの情況を各階走って見た記憶があります。
 選挙事務所に行ってから、テレビが映し出す、現実とは思えない光景に立ちすくんでいました。
 その後、暫く何をしていたか、今思い出せません。

 家に帰って、母の無事を確認後、リュックにパン、ペットの水、生理用品、10円玉をあるだけ詰め込んで近くの避難所に行きました。 
 避難所の中学校には消防団と職員がいましたが、皆も落ち着きがありません。
避難してきた方に、クラッカーをくばったけれど、水が来ないと、入り口で固まっています。
 私は体育館の床に座り込んでいる女性の方たちに生理用品が必要か尋ねてまわり、お渡ししていきました。
 
 次に駅に行くと、帰れなくなった方が改札前に大勢いらっしゃる。駅前の床は、隣のスポーツクラブのプールが破損したのか、揺れたせいか、水浸し。
職員が避難所までの地図を掲げていても、通勤している人は道が良くわからないのでキョロキョロしています。 私、持ち前の大声で、避難所案内係ですと、行かれる方こちらに集まってくださーいと、観光バスのガイドさんみたいに手を振り上げて、10人単位くらいでご案内しました。
 体育館は随分の人です。

 中に落ち着かないご高齢のご婦人がおられます。
わけを聴くと、娘さんの家にいく途中できっと心配している!とのこと。
電話番号がわかるとのことなので、持参していた10円玉を使い、公衆電話で連絡代理。
無事につながって、一安心でした。

 家に帰ろうと歩いていると、迷ってしまって居る人たちに会います。帰宅しようと遠くから歩いている方や、避難所が解らなくなった方などです。持参のパン、水を御渡しします。

 こうしてみると、11日当日の様子が母と同じく昨日のように思い出されます。

 原発の爆発を見た時は、もうこの世の終わりかと思いましたが、まだまだこの世は続いています。

 廃炉となるにはまだまだ、まだまだかかります。
私は廃炉を見届けられないと思う。年月からして。

 悲惨なことも、小さな喜びも、後悔も、希望も、みんなひっくるめてとにかく生きている限り、マイナスの方向に足を引っ張るような生き方だけはしたくない、と改めて思います。
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