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私が核武装論議を認めない理由

2006年12月08日 23時46分02秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
 「教育基本法改悪反対理由」に続いて、「核武装論議を認めない理由」についても少し。その理由は簡単です。「核武装論議を認めない」のは、その論議が『核武装渇望論者の側から、こっそり渇望の立場で提起されているに過ぎないから』。これに尽きます。

 中川昭一・麻生太郎の「核武装論議」容認発言を契機に、「これこれの理由で、日本の核武装は現実的ではない、拠って核武装には反対だが、議論自体を封殺するのも平和ボケの所産」という様な記事が、週刊誌上で散見されます(例えば、週刊プレイボーイ11月13日号の特集「ニッポン核武装は可能なのか?」など)。言葉づらだけで見ると、あくまでも「核武装は非現実的で核武装には反対」と結論付けた上で、但し「議論自体を封殺するのもどうかと思う」と疑問を呈しているだけの様に読めますが、全然違います。「今は未だ実現望み薄だが、実現可能性が高まればいつでも核武装を実現したい、それまでは米国の核の傘の下で臥薪嘗胆」と言うのが本音です。

 だってそうでしょう。日米安保・軍事同盟肯定の立場で今まで散々論陣を張ってきた軍事アナリストばかりが集まって、単に経済合理性(グローバル資本の利益確保)や外交整合性(日・米・中・韓・APECでのお付き合いやNPT・IAEAとの関係など)との兼ね合いの中で、「単独核武装はコスト的に引き合わない」と言っているに過ぎないのですから。それが証拠に、「単独核武装か米国の傘の下か」という予め作った土俵の中で、堂々巡りの議論しかしていないでしょう。その中で、当のアナリストたちも、「とりあえず今は米国の傘の下で臥薪嘗胆」と言う落とし所に落ち着くしか他に方法が無い事は充分承知の上で、「いつか単独核武装の野望を実現してやる」とお互いに慰めあっているに過ぎません。その土俵から離脱して「如何にして非核の世界を実現していくか」なんて発想は、彼らにとっては全く想定の埒外なのですから。

 元々の軸足が日米安保・軍事同盟肯定にある彼らが言う「コストが引き合わない」というのは、「自前で核開発や核実験が出来なければ、米国や軍事コンサルタントや非政府テロ組織や、場合によっては北朝鮮の様な"ならずもの国家"と裏取引してでも、何とか核を入手出来ないか」という願望を暗に含んだ上での「とりあえず今は残念ながらコスト的には引き合わない」と歯軋りしているにしか過ぎないのです。この裏には「何とかコストを引き合わせられないか」と「核武装をこっそり渇望」の本音が隠れています。

 ただ中川・麻生に関して言えば、彼らの発言にはまた別の意図が隠されています。本当は「核武装は是か非か」なんて事は別にどうでも良いのです。その手の発言を繰り返し繰り返し言い続ける事で、「戦争や核武装や海外派兵も、日本国家が取り得る選択肢の一つなのだ」「ハイテクを駆使した現代戦争においては、徴兵制は費用対効果の点では引き合わないから今はとりあえず志願制を採っているが、国民にもいざとなったら戦争を担う覚悟は持ってもらう」というのが、彼らの発言の本当の狙いです。
 これは、かつての中曽根康弘による「日本不沈空母」発言と同じで、「観測気球」を上げているのです。それで世論から反発を食らったから「非核三原則は守る」と急遽弁解に回っていますが、世論の反発が無ければ次は非核三原則の改廃を言い立ててくる筈です。

・『個人的発言』という詭弁 『核』へ誘導(東京新聞)
 http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061111/mng_____tokuho__000.shtml

 核武装論議は、あくまで核廃絶・非核政策追求の立場から、「核武装が如何に資源を浪費し国力を疲弊させ人類の滅亡を早めるか」「核の均衡・抑止論が如何にマヤカシであるか」という観点で行ってこそ、初めて意味があるのです。それは北朝鮮の軍拡政治を批判する場合でも同じです。中川・麻生の様な「目には目を歯に歯を」「目糞鼻糞を笑う」的立場からではなく、反戦の立場から行ってこそ初めて、国際世論に対して説得力のある批判が可能になるのです。そうでない核武装論議は、それがたとえ仮に「核武装は非現実的」との結論に落ち着くかの様に装っていたとしても、それは「こっそり渇望」論にしか過ぎないのです。
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