5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

朝顔の露

2013-08-20 21:59:46 | ことば
朝顔の咲いているところを余りみかけない気がする。自分が出かけるのが午後だからということもあろう。昔は夏の園芸蔓草として人気があったのが、最近はゴーヤーなどにその流行が移ったせいかもしれない。

金田一先生は「ことばの歳時記」で、朝早く庭に出てひんやりとした空気の中に朝顔が青く赤く露を含んで咲いているのを見るとはや秋の訪れを感じると書いているが、昨日の熱が引かない熱帯夜を過ごし、そのまま日の出の直射熱を感じる朝を迎える毎日が続いているのだから、今年は秋の訪れなど感じることはできない。

早暁に開いたらその一日はもたない朝顔は、人の命のはかなさを象徴する花だと先生は云って、鴨長明の「方丈記」の冒頭部分に書かれた「この世の無常は朝顔の露と同じだ」という処を引用している。

平安末期(12世紀)に起こった都の大火、竜巻、飢饉、地震などの天変地異について書かれているということで、東北大震災後の日本では再び「方丈記」が注目されたということは、もちろん金田一先生はご存知ではない。

気温の高い今年の朝顔は「朝露」に濡れるということさえないのだろうが、人の命や暮らし方の儚さを表わす花であるというのは間違いはない。古文を引用することはあまりないから、「方丈記」の序章全体を転記しておこう。

『 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることな し。
  世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

  玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、
  代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
  或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。

  所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
  あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
  知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
  又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

  そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。
  或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。
  或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。 』



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