大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

松山の旅・その他

2018年12月31日 | 松山の旅
12月25日松山着8時10分・12月27日伊丹着20時20分。
まるまる3日間松山に滞在、漱石・子規・秋山兄弟ゆかりの地と内子の町巡りを達成。
その上、地元ボランティアの方のお蔭で下記の場所をも訪れることができました。

萬翠荘
大正11年旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建設。
純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、昭和天皇をはじめ皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたそうです。

敷地内には愚陀佛庵(漱石の借家・子規が52日間同居)があり句会が行われていたが、平成22年の土砂崩れにより全壊、現在は跡地のみとなっている。

湯築城跡
二重の濠と土塁を持ち、その間に居住空間を有する平山城で現在の道後公園内に残っている。
伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期まで約250年間にわたって居城とした。
河野通信の時、源平合戦で功績をあげ鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得る。承久の乱で没落するも元寇で復権した1335年頃この湯築城へ本拠を移した。
その後、秀吉の四国攻めにより小早川隆景に城を明け渡し、400年に及ぶ伊予支配に終止符を打った。
時宗を興した一遍上人は河野通信の孫。

愛媛県庁
第4代庁舎。昭和4年竣工。設計木古七郎(萬翠荘も設計)
国内で3番目に古い庁舎・・1番大阪府庁舎(大正15年)・2番神奈川県庁舎(昭和3年)。
正面の青いドームの下の5階にはドーム会議室、その下の4階には正庁の間、その下の3階は貴賓室。
玄関上の愛媛縣廰の文字の下を潜ると正面には赤絨緞の階段。

坊ちゃんからくり時計
平成6年、道後温泉本館百周年を記念して制作。8時から22時まで1時間毎に時計がせり上がり、小説坊ちゃんの登場人物が現れる。
その時刻になると時計の前には人垣ができ、皆さん上を見上げています。

坊っちゃん列車
伊予鉄道開業から間も無い明治21年から活躍した蒸気機関車がモデル。
当時は黒煙をもくもくと出しながら走っていましたが、現在はディーゼルエンジンで走っています。当時の客車(写真上)は子規堂の前に保存されている。
小説坊ちゃんで「ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。」と記されている。

旅の終わりをむかえた頃、相棒から驚きの声があがり、何事か尋ねますと、1万歩を超えている、と。
私も歩数計を見てみました。
今回の歩数・・25日12351歩
       26日17384歩
       27日13722歩
       合 計43457歩。
よく歩きました。
今回は二日目の早朝、傘もほとんど必要ないくらいの雨に遭いましたが、それ以外は良い天候に恵まれ相棒から楽しかったとの声も上がり思い出深い旅となりました。
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内子の町並み散策

2018年12月31日 | 松山の旅
JR松山駅から内子駅へ約1時間、内子座見学後内子の町へ。

内子座
大正5年、大正天皇即位を祝い創建。木造2階建て瓦葺き入り母屋造。
芝居小屋として活用後老朽化のため取り壊しになるところを、町並み保存運動と連動して昭和60年町民の熱意により修理復元。
現在では花道・回り舞台・奈落・義太夫席・すっぽん・升席を備える本格的劇場として年間約5万人の来場者が文楽・歌舞伎・芝居・落語等を楽しんでいる。平成27年重要文化財指定。

内子町ビジターセンター
八日市護国地区の伝統的町並み保存運動を官民連動で立ち上げ、1986年内子座でシンポジュームを開催しドイツローテンブルク市長を招聘。その後同都市へ青少年派遣を毎年行い、平成23年ローテンブルク市と姉妹都市提携。

本芳我家住宅
木蝋生産で財を成した豪商の屋敷で随所に漆喰を使った鏝絵や懸魚、鬼瓦等上質な意匠を見ることができる。(重文)
明治33年パリ万博に出品し銅賞を獲得。
建物内部は非公開ですが庭園は見学できる。

大村家住宅
主屋は、寛政年間(1789~1801年)築と伝えられ、内子の町並みの中で最も古い民家の一つ。(重文)
平成21年から24年にかけて修理され当初の姿に復元された。
内部は非公開。

内子の町民を楽しませたであろう映画館や伝統的町並みも楽しんできました。

高橋邸
大阪麦酒会社に入社しドイツに留学しビール醸造に精力を傾け、大阪、日本、札幌麦酒三社が合併し大日本麦酒会社を世界三大麦酒会社にまで発展させ日本のビール王と呼ばれた高橋龍太郎社長の生家。
現在は、文化交流ヴィラとして公開。

国内に木蝋生産地は多くありましたが、内子の特徴は生蝋を漂白することで蝋燭以外に石鹸、化粧品、クレヨン等への用途が広がり需要拡大となったことが特徴です。
和蝋燭を求めましたので仏壇にお供えしましょう。



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秋山兄弟と坂の上の雲ミュージアム

2018年12月30日 | 松山の旅
今回の松山への旅は、3日間自由行動でしたので所期の目標である夏目漱石ゆかりの地と内子の街並みを巡る旅の他へも行くことができました。

それが司馬遼太郎作品「坂の上の雲」で有名になった秋山兄弟の生誕地で、松山城へのロープウエー乗り場近くにあります。

秋山兄弟生誕地
江戸末期の天保年間から現在地にあった秋山家は昭和20年空襲により焼失。

「質素な茅葺屋根で数部屋」「低い平屋で玄関の庭は暗いが広く板戸があった」との文献や昭和初期に撮影された写真に秋山家子孫の聞き取り調査を加えて、昔からあった構造(玄関と四部屋、土間)に近い形で復元。

明治16年藩主が藩士の東京での勉学支援のため常盤会設立。正岡子規は、その第1回生。
明治21年秋山真之達が松山同郷会を設立。昭和12年同本部を生誕地横に移転。
昭和28年常盤会と併せて財団法人常盤同郷会とし平成22年公益財団に移行、青少年育英団体として活動。

秋山家は、家禄10石程度の徒士目付。子供は、娘1人、息子5人あり好古は三男、真之は五男。
幼いころから漢学塾、勝山小学校、松山中学校で学んだ。

好古は、家計を助けるために官費で学べる大阪の師範学校を卒業し教員となるが、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て軍人となる。
明治20年から4年間、旧藩主と共にフランスに留学、陸軍士官学校で学んだ。

日露戦争で日本の騎兵隊に世界で初めて機関砲を常備して世界最強と言われたロシアのコサック騎兵隊を撃退した。のち陸軍大将に栄進。退役後松山の北予中学校の校長に就任。
青年時代教員を志し日本騎兵隊を育て陸軍教育総監になった時一番嬉しかったと伝えられるほど生涯を通じて教育に情熱を注いだ。
(写真下左好古・右真之)

真之は16歳で中学校中退して上京、東京大学予備門で子規と同級。
兄好古の勧めで海軍兵学校入学、首席で卒業。

明治27年騎兵第一大隊長として日清戦争に従軍、米国に留学し海軍戦術を学ぶ。
明治38年日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争の勝利に貢献。海戦前に発せられた電文に「本日天気晴朗なれども波高し」を追記したのは有名である。71歳松山で没。

戦後は海大教官、三笠副長、音羽艦長などを歴任したほか、軍務局長としてシーメンス事件の処理に当たった。その後も活躍を期待されていたが、51歳の若さで病没した。

坂の上の雲ミュージアム
平成18年竣工、設計安藤忠雄。鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上4階。
館内の各階はひと続きのスロープで結ばれ、来館者はゆっくりと歩き、考えることができる空間となっている。

小説「坂の上の雲」には、明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描くことで、近代国家の形成期の世界や日本で起きた出来事、そのなかで生きた人びとの人生など多くの物語が描かれ、現代を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれる。
本ミュージアムでは、これらをテーマにした展示や様々な催しをおこなうことで、訪れた方々に歴史を学び、未来への思索を深め考えることを目的にしている。

司馬遼太郎記念館でのボランティアツアーで訪問以来2度目の訪問となり、多くの来館者やミュージアムのスタッフに出会う事が出来、改めて司馬遼太郎の偉大さに触れることができました。
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子規ゆかりの地巡り

2018年12月29日 | 松山の旅

松山出身の子規ゆかりの地は松山全てといっても良いと思いますが、今回訪問できたところのみ記載します。

生家・・子規の菩提寺であり文学仲間であった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して、子規が17歳で上京するまでの住まいを寺の敷地内に復元した。現在は子規堂として保存され子規の直筆原稿や遺墨・遺品・勉強机などを展示。
正宗寺の境内墓地正面には子規の埋髪塔があり、その後方には正岡家のお墓がある。
上京の途次奈良法隆寺にて詠んだ句「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

伊佐爾波神社・・松山藩主松平定長が流鏑馬の成功のお礼に寛文7年(1667年)建立。日本に三つしかない八幡造りの社殿は国の重文。石段135段を子規も上ったであろうと思いながら参拝。
参道沿いの宮司宅の立派な門構えを読んだ句「柿の木や 宮司か宿の 門がまえ」

松山城・・加藤嘉明が海抜132mの勝山山頂に建てた連郭式平山城。慶長8年(1603年)居を新城下に移し松山と命名。我が国最後の完全なる城郭建築。
(写真上左の中央大天守と左小天守、右一ノ門櫓・写真右大天守と玄関多門櫓)
日清戦争の従軍記者として赴く前に詠んだ句「春や昔 十五万石の 城下哉」 

坊ちゃんスタジアム・・JR市坪駅前に本格的野球場を建設し漱石の小説に因んで坊っちゃんスタジアムと命名。
駅名市坪の下にの・ボール(野球)と記載されており、子規への思い入れがよく判りました。
野球という言葉は子規の幼名升(のぼる)を、のとボールに掛けて子規が創作。
その功績で野球殿堂入りをしています。
子規の句「夏草や ベースボールの 人遠し」

道後温泉本館・・漱石も良く通った温泉ですが子規も一緒に入浴を楽しんだことでしょう。
三階から見えた風景を詠んだ句「柿の木に とりまかれたる 温泉哉」

子規記念博物館・・正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとに松山や文学について親しみ、理解をふかめていただくために開設された文学系の博物館で道後公園内に建設。

同じ年(慶応3年・1867年)に生まれ、親友だった俳人・正岡子規と、小説「坊っちゃん」他を書き残した文豪・夏目漱石。
彼らは、互いにその才能を認め合い、友情を育み、やがて日本の近代文学に大きな足跡を残した。松山「愚陀仏庵」で過ごした52日間は、日本文学の発展に大きな影響を与えた。

ふたりの友情を伺い知る俳句が残されている。
御立ちやる可 御立ちやれ 新酒菊の花 (漱石)
行く我に とどまる汝に 秋二つ   (子規)
漱石は、子規が愚陀仏庵を去り上京する折に「気を付けて行ってらっしゃい」と送別の句を送った。子規は「二人二様のそれぞれの秋を過ごす事になるだろう」と、漱石の句に応えている。
没年は、子規明治35年(35歳)・漱石大正5年(49歳)。
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夏目漱石ゆかりの地巡り

2018年12月28日 | 松山の旅
12月25日から3日間、松山道後温泉へ行って来ました。
目的は、相棒の1年間の疲れを温泉で癒すことと私は漱石ゆかりの地と内子の町を巡ること。

漱石と松山の関わりは、明治25年漱石が東京大学予備門の学生の時子規を訪ねたことから始まります。
明治28年松山中学英語教師として赴任、その際逗留したのが城戸屋旅館で小説坊ちゃんには山城屋のモデルで登場。松山中学校へ来たのは渡航費用捻出のためであったそうです。
その後、松山での住まいは愛松亭・愚陀仏庵へと移った。

城戸屋旅館・・当時松山第一級の旅館。漱石が明治25年子規を訪ねた際にも投宿。また秋山真之が軍艦筑紫で呉に寄港した際愚陀仏庵にいる子規を見舞うため宿泊した。所有者は何代か変わり途中までは 漱石の最後に泊まった部屋を坊ちゃんの間として大切に保存していたが空襲で全焼、その後も再建され松山坊ちゃんの会が設立され坊ちゃんを愛する人たちの憩いの場になっていた。現在は取り壊されマンションになっている。

愛松亭・・坂の上の雲ミュージアムから萬翠荘への途中にあった小料理屋。漱石は城山にある愛松亭からの眺めが気に入っていたそうで、親友の正岡子規に「眺望絶佳の別天地」だと自慢したほどです。現在は、その場所に漱石珈琲店愛松亭となっています。

愚陀仏庵・・3番目の住まいを自らの号愚陀仏をとって愚陀仏庵と名付けた。子規は日清戦争の従軍記者として従軍、帰国の途次喀血須磨で一時療養、小康を得た身を故郷松山の地で休めることとなり漱石の勧めでこの愚陀仏庵に身を寄せた(二階家に住んでいた漱石が1階を子規に譲った)。その際俳句結社松風会の門下生を指導したり俳論俳諧大要をまとめた。二人にゆかりのこの建物は戦災で焼失、萬翠荘裏に再建したががけ崩れに遭い崩壊。子規記念博物館に子規が住んでいた1階が、また20分の一の全景模型が復元されている。

松山中学赴任中の訪問の地は、道後温泉、新栄座もあります。

松山中学校・・藩校・明教館の流れを汲み、旧制松山中学以来の伝統を持つ県内最古の高等学校、現松山東高等学校。尋常中学校時代に夏目漱石が第五高等学校へ赴任するまで1年間教鞭をとっており、この体験を元にして小説坊っちゃんが描かれた。県庁と市役所の間の跡地には碑が残されている。

道後温泉・・明治28年赴任後友人にあてた手紙に「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上がり茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるというような始末、ずいぶん結構に御座候」と書き送っています。
私達も三階に上って坊ちゃんが泳いだ温泉に入り坊ちゃん団子を味わい、漱石の気分になってきました。
漱石が道後温泉で詠んだ句「霞む日や 巡礼親子 二人なり」

新栄座・・明治20年開館昭和32年閉館。愚陀仏庵に子規と同居している間、同行した吟行の帰途狂言見物に訪れている。その場所は三越横の大街道に面したビルになっている。

松山滞在は、28年4月から29年4月に熊本へ行く1年間でしたが、見合い、婚約や小説坊ちゃんの題材にとなる数々の体験をしている。また子規との交流で俳句に親しみ、文学論を交わしたことが小説家へと変身する発端となったようです。
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