大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

仁徳天皇陵とアルフォンス・ミュシャ展

2024年06月08日 | 史跡
6月6日午後から、孫娘の希望で仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵・世界遺産)へ相棒を伴って出かけました。

JR百舌鳥駅下車、徒歩数分の仁徳天皇陵。墳丘の全長486mは世界一の大きさ。
手前に建造当時の予想復元模型・向かいの大山公園には仁徳天皇と耳原の由来となった鹿との像が設置されています。
百舌鳥(もず)という名前は、仁徳天皇陵を造営する際に工事を担当した人たちの中に鹿が飛び込んで倒れ死ぬ事故があり、その鹿の耳を食い裂いた百舌鳥が飛び出したため、地名を「百舌鳥」に改称したという言い伝えがあります。今も耳原の地名は残っています。

正面拝所から参拝後、ボランティアさんの説明をお聞きしました。
相棒は、高校時代の校内マラソンで仁徳天皇陵の周りを走った記憶がよみがえったようです。
その後、堺東の堺市役所に行き展望台から御陵を見下ろし、その巨大さを体感した後、孫からミュシャ展に行きたいと。

バスで堺市駅前の堺市文化館アルフォンス・ミュシャ館へ。
カメラのドイの創業者土居君雄氏が所蔵のミュシャ作品を堺市に遺贈されたもの。

聞けば中学時代にミュシャの展覧会へ行って以来のファンだそうで、堺にアルフォンス・ミュシャの常設館があることは知っていましたが孫のお陰で来ることができました。

アルフォンス・ミュシャ
チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。
アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。

本日も相棒は孫娘と同行したくて頑張って歩きました、元気の素ですのでまた来てもらいたいものです。
孫は、フランスのオリンピックを見に行くそうで、その際チェコのミュシャ美術館にも寄るそうです。
本日の歩数計、13239歩。
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浜寺公園駅舎(南海本線)

2024年04月13日 | 史跡
先日浜寺公園へ桜を見に行った際、久しぶりに南海本線浜寺公園駅に下車しました。
この駅には、勤務時代の社宅があり大阪事務所勤務の際お世話になり4年間ほど乗降させてもらい相棒と共に懐かしく思い出に浸りました。

浜寺公園駅旧駅舎
明治40年築、辰野金吾(東京駅・大阪中央公会堂等設計)の設計。
明治30年南海鉄道浜寺駅として開業。明治40年現在の駅舎に建て替えられ、浜寺公園駅に改称。
木造平屋建ての旧駅舎の外観は左右対称で、上層の寄棟屋根に配置された四つのドーム窓、大小の切妻屋根と下層の庇屋根が建物の正面をバランス良く形作っている。

入り口の柱は鹿鳴館を思わせ、北側の駅務室と南側の特等待合室で構成され、南棟(写真上)の内装は暖炉やシャンデリアが格子窓のデザインと調和して華やかな室内を演出している。

1998年に国の登録有形文化財に登録されており2016年の使用終了当時、現役の私鉄駅舎の中で最古の駅舎とされていた。
平成28年に営業を終了後、活用事業開始とともに30mほど公園側に曳家され令和10年ごろ新しい高架駅完成後、元の位置に戻され新駅の玄関口となり末永く保存される。

駅前の道路も拡張され駅舎周辺には花壇も設置され、地元の皆様に大事にされていることが感じられました。
現在駅舎では、カフェ(北棟)やギャラリー(南棟)として活用されていて私たちも美味しいコーヒーを頂き一休み。
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倉敷・岡山への旅

2024年04月10日 | 史跡
4月8日、ツアーで倉敷・岡山へ。

曇天の中、近畿自動車道・中国道・山陽道を進むバスの車窓から満開の桜を望みながら倉敷を目指します。

倉敷アイビースクエアで早めの昼食。ツタが絡まる赤レンガ造りの外観は大変趣がありました。

アイビースクエアは、明治時代の倉敷紡績所(現クラボウ)発祥工場の外観や立木を可能な限り保存し、再利用して生まれた、ホテル・文化施設をあわせもつ複合観光施設。2007年には、旧倉敷紡績所が日本の産業の近代化に大きく貢献したとして、創業時の紡績工場の建物群が、国の「近代化産業遺産」に認定されました。

食後、隣接する倉敷美観地区を散策。

柳の新芽と桜が同時に見ることができ、堀の白鳥も喜んでいるようです。

バスガイドさんの案内で阿智神社が鶴形山の上にあり、眺望が良いとのことでしたので行ってみました。

石段約200段、結構急な階段でしたが何とかクリアーし参拝後、満開の桜越しに倉敷市内が一望できました。

バスの車窓から、聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つ備中国分寺の五重塔(岡山県唯一の五重塔・江戸中期の再建)や桃の花を観賞。

桃太郎のお話のもととも云われる温羅退治のお話や鳴釜神事で名高い三備一宮吉備津神社へ。

本殿(国宝)の大きさは、桁行き約14.6m、梁間約17.7m、棟高約12m、建坪約255m²の大建築であり、京都の八坂神社につぐ大きさがあり、また出雲大社の約2倍以上の広さがある。

本殿裏の長い回廊の途中の御竈殿にもお参り。
鳴釜神事は、「世の中に事あれば釜の前に参り給えば幸あれば裕に鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう」と言い伝えられていて、現在でも希望者には占って頂けるそうです。

最後に、後楽園から岡山城へ。

後楽園は、江戸時代を代表する大名庭園(回遊式庭園)の一つです。岡山藩主 池田 綱政が家臣の津田永忠に命じて、1687年に着工、1700年に一応の完成をみました。その後も藩主の好みで手が加えられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられています。

今の岡山城付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘がありました。その石山にあった城を手に入れて本拠地とし、岡山の地を戦国の表舞台に立たせたのは宇喜多直家でした。その子の秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築きました(1597年天守完成という)。

今回の旅は、雨に遇うことは少なく満開の桜にも出会えたうえ、楽しくいろいろな歴史を感じることができました。

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「青い山脈」の歌碑

2024年02月16日 | 史跡
現在、NHK朝ドラ「ブギウギ」が放映中ですが、笠置シズ子が主人公で作曲家として服部良一もモデルのようです。
我が家から徒歩10分くらいの所に、服部良一作曲の「青い山脈」の歌碑があり歌碑には「青い山脈」の楽譜が彫られ、スピーカーから曲が流れ出すしかけになっています。
「青い山脈」は、石坂洋次郎原作で映画化され主題歌(昭和24年)が藤山一郎、奈良光枝によって歌われ大ヒットとなった。

場所は、氏の母校であった東平小学校の跡地の一角ですが、現在跡地はフェンスが設置されていて中に入れず、ボタンはフェンスの外にあるのですが「現在故障中」の表示があり聴くことができませんでした。

服部良一
明治41年生。大阪出身、小学校より音楽の才能を発揮、姉の勧めで好きな音楽をやりながら給金がもらえる仕事につき、大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団(第2フルートを担当)。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見いだされ、メッテルから4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受ける。演奏者、編曲、音楽監督等を経て1936年コロムビアの専属作曲家となる。
平成5年没。同年2月に国民栄誉賞を受賞。歌碑は平成16年建立。
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三光神社・玉造稲荷神社

2024年01月23日 | 史跡
1月20日から二十四節季の大寒に入っており、大寒らしく今週は今冬一番の寒さの到来で最高気温5,6度の日が続きます。
本日も朝から強風と低温ですので、相棒の買い物は徒歩5分のスーパーへ。
健康のため遠くまでの買い物でウオーキングを楽しむ、いつもの相棒の買い物のルート上には、三光神社と玉造稲荷神社があります。

三光神社
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ、創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。

当地は大坂城の出城(真田丸)のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め、本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられる真田の抜け穴が境内にある。
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を昭和62年建立、その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(真田石)が使われている。

玉造稲荷神社
垂仁天皇18年(紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ、聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際祈願された。
その後のたびたびの焼失等の度、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守等が、また文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。
別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されてきた。

玉造の名は、この難波に玉作部が存在していたことからで、日本書紀にも記述がある。
江戸時代に全国的に流行したお伊勢参り。伊勢参りが流行した当時の玉造は大坂以西の伊勢参り出発地であり旅立つ人、またそれを見送る人々でたいへん賑わっていた。

私たちも数年前伊勢街道(169km)を歩いてお伊勢さんへ行った際のスタートは玉造稲荷神社であったことを思い出しました。
買い物ルート上では、冬にもかかわらずきれいな花や実が生っていて、私たちの心を温めてくれています。


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