大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

秋山兄弟と坂の上の雲ミュージアム

2018年12月30日 | 松山の旅
今回の松山への旅は、3日間自由行動でしたので所期の目標である夏目漱石ゆかりの地と内子の街並みを巡る旅の他へも行くことができました。

それが司馬遼太郎作品「坂の上の雲」で有名になった秋山兄弟の生誕地で、松山城へのロープウエー乗り場近くにあります。

秋山兄弟生誕地
江戸末期の天保年間から現在地にあった秋山家は昭和20年空襲により焼失。

「質素な茅葺屋根で数部屋」「低い平屋で玄関の庭は暗いが広く板戸があった」との文献や昭和初期に撮影された写真に秋山家子孫の聞き取り調査を加えて、昔からあった構造(玄関と四部屋、土間)に近い形で復元。

明治16年藩主が藩士の東京での勉学支援のため常盤会設立。正岡子規は、その第1回生。
明治21年秋山真之達が松山同郷会を設立。昭和12年同本部を生誕地横に移転。
昭和28年常盤会と併せて財団法人常盤同郷会とし平成22年公益財団に移行、青少年育英団体として活動。

秋山家は、家禄10石程度の徒士目付。子供は、娘1人、息子5人あり好古は三男、真之は五男。
幼いころから漢学塾、勝山小学校、松山中学校で学んだ。

好古は、家計を助けるために官費で学べる大阪の師範学校を卒業し教員となるが、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て軍人となる。
明治20年から4年間、旧藩主と共にフランスに留学、陸軍士官学校で学んだ。

日露戦争で日本の騎兵隊に世界で初めて機関砲を常備して世界最強と言われたロシアのコサック騎兵隊を撃退した。のち陸軍大将に栄進。退役後松山の北予中学校の校長に就任。
青年時代教員を志し日本騎兵隊を育て陸軍教育総監になった時一番嬉しかったと伝えられるほど生涯を通じて教育に情熱を注いだ。
(写真下左好古・右真之)

真之は16歳で中学校中退して上京、東京大学予備門で子規と同級。
兄好古の勧めで海軍兵学校入学、首席で卒業。

明治27年騎兵第一大隊長として日清戦争に従軍、米国に留学し海軍戦術を学ぶ。
明治38年日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争の勝利に貢献。海戦前に発せられた電文に「本日天気晴朗なれども波高し」を追記したのは有名である。71歳松山で没。

戦後は海大教官、三笠副長、音羽艦長などを歴任したほか、軍務局長としてシーメンス事件の処理に当たった。その後も活躍を期待されていたが、51歳の若さで病没した。

坂の上の雲ミュージアム
平成18年竣工、設計安藤忠雄。鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上4階。
館内の各階はひと続きのスロープで結ばれ、来館者はゆっくりと歩き、考えることができる空間となっている。

小説「坂の上の雲」には、明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描くことで、近代国家の形成期の世界や日本で起きた出来事、そのなかで生きた人びとの人生など多くの物語が描かれ、現代を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれる。
本ミュージアムでは、これらをテーマにした展示や様々な催しをおこなうことで、訪れた方々に歴史を学び、未来への思索を深め考えることを目的にしている。

司馬遼太郎記念館でのボランティアツアーで訪問以来2度目の訪問となり、多くの来館者やミュージアムのスタッフに出会う事が出来、改めて司馬遼太郎の偉大さに触れることができました。
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