大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

薬師寺東塔解体工事

2019年04月29日 | 史跡
昨日、司馬遼太郎記念館での活動後、相棒と共に薬師寺東塔解体工事見学へ。
記念館の庭は、青もみじを始めつつじ・シャクナゲ・バラも咲きだして初夏の彩りを見せており、企画展も「梟の城」(5月6日まで)から「司馬遼太郎の世界」(5月8日から)に変わります。

近鉄西ノ京駅から牡丹が見頃の参道を経て薬師寺白鳳伽藍へ。

金堂では、丁度始まった法話をお聴きし東塔の見学へ。
法話では、自分の手は動かせるが人の手はいくら命令しても動かないように人を思い通り動かすことは難しいものである、相手の気持ちになって丁寧に相手が動きやすいように話をする。また薬師寺は法相宗で檀家を持たず僧も10数人しかおらず収入面では厳しく写経の協力を訴えておられました。

中門からの景色は、正面の金堂の左手の西塔、左手の東塔は高さ40mの巨大なテントに覆われています。
そのテント内に入って解体工事の終わった東塔の脇に設けられた階段を上ります。
東塔・西塔ともに三重塔です、小さな屋根がありますがこれは裳階(もこし)と言って風雨から構造物を保護するためと建物を実際より多層に見せることで外観を優美に見せるために付けられたものです。

途中、眼下の金堂・大講堂を見下ろしながら最上部の足場(高さ26m)の目の前に東塔の最上部の屋根とその上の相輪(約10m)と水煙(約1.8m)を間近に見学。

相輪と水煙(写真下左)の周囲には、まだ鉄骨が囲っており四面の鋳銅製鍍金からなる水煙上部の二人の天人像と下部の奏楽天人像(横笛を吹く天人)の一部を垣間見ることができました。

解体工事は終わっており、この見学会終了後塔の覆いを取り外し来年4月22日には落慶法要が厳修されます。
1年後も再訪できるよう健康維持に努め、下の写真のような構図を見たいものです。

多くの見学者が訪れていましたが比較的スムーズに見学を終えることができ、大講堂で甘いものを購入し別室で疲れを癒し、急な足場を上ることができたことと美しいボタンを見ることができご機嫌の相棒と共に帰途に。
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落語会・桂ちょうば

2019年04月26日 | 高齢者大学
4月24日、高大同窓会大阪カルチャー事業部で落語会を企画。
演者は、桂ちょうば師匠。

事前に会場の大阪市立社会福祉センターの会議室の机を片づけ、その机数脚を積み上げて演台を作り後方に金屏風等を立てかけ、前面に椅子を配置して落語会場の出来上がり、皆さんをお迎えする準備完了。

10時15分、集合場所の近鉄上本町店前に集合の35名、徒歩数分の会場大阪市立社会福祉センターへ。
10時30分開演。

最初に、桂ざこばの弟子であることを自己紹介、また簡単な落とし噺を交えて落語の由来、昨年「上方落語若手噺家グランプリ」を受賞したこと等を笑いをとりながら披露し、最初の落語「看板のピン」二席目「ふぐ鍋」をたっぷり聴かせて頂き会場は大爆笑。

終演後、会場前まで迎えに来て頂いたバスで「がんこ平野郷屋敷」へ。
江戸時代初期の庄屋蔵屋敷での奥座敷で会食を頂き満腹、初夏の花の咲く庭園を散策後送迎バスで天王寺駅と上本町へ。

今回は、桂ちょうば師匠が定期的に開催されている落語会に参加していた縁で落語会の開催を打診したところ快諾頂き実現しました。
ご参加頂いた皆様からは、「面白かった、楽しかった、又呼んでください」等のお言葉を頂き世話役一同ホッとしたところでした。
と同時に、落語の話術の巧みさに改めて感動すると共に、ちょうば師匠・高瀬マネージャーさんには大変お世話になり、有難うございました。
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大阪歴史ウオーク・月亭文都

2019年04月23日 | 伝統芸能
4月20日、落語家月亭文都と歩く大阪歴史ウオーク第6回に参加。
コースは、地下鉄西長堀駅⇒和光寺(阿弥陀池)⇒千代崎橋⇒松島新地⇒茨住吉神社⇒安治川トンネル⇒大阪初代船奉行所跡⇒千鳥亭(落語会)⇒解散。

午後1時30分西長堀駅前に集合した約50名、落語「阿弥陀池」の舞台和光寺へ。西方向へ進み千代崎橋で木津川を渡り、住吉三神と神功皇后を祀る茨住吉神社へ。応神天皇を安産されたことから今も安産にご利益があると信仰されている。本日のウオーキングの無事を祈り、松島新地の名残の残る建物の中を西へ。

河村瑞賢が開削した安治川を越えるのは橋ではなくトンネル、大阪の主要水路を担う安治川に橋を架けると船便の往来に差し支えるため、川を渡るのは渡船(源平の渡し)が利用されていたが、昭和19年川底に隧道を掘って人と自動車が通れるようにした。現在はエレベーターで人と二輪車のみの通行に利用されており、私はトンネルをくぐり93段の階段を上って地上へ。

その後、西九条から六軒家川の朝日橋たもとの大阪初代船奉行所跡へ。元和6(1620年)、幕府は四貫島村に船奉行所を設け、西国諸国から大坂に向かう諸船の通行を吟味し西国諸侯の動向をここで監視した。平成23年「初代大坂船奉行所跡」の碑が建立され、その文字は、橋下徹氏の手によるものです。

そこから此花住吉商店会の千鳥亭へ。千鳥亭は講談師旭堂小南陵さんが、倉庫であったこの場所を講談の定席とするため寄付を募りDIYで改装し2019年1月3日オープンした。席数は50席位でしょうか、今回はぎっしり満員でした。

いよいよ落語会の開演、本日巡った場所にゆかりの「阿弥陀池」と「茶屋迎え」の二席で会場は大笑い。

阿弥陀池
隠居を訪ねた男に次のような事件を語って聞かせる。ある晩、和光寺に押し入った賊が、ある尼僧に「金を出せ」とピストルを突きつけるが、尼僧は落ち着き払って胸をはだけ、「過ぎし日露の戦いに私の夫・山本大尉は乳の下、心臓を一発のもと撃ち抜かれて名誉の戦死を遂げられた。同じ死ぬなら夫と同じ所を撃たれて死にたい。さぁ、誤たずここを撃て」と賊に言い放った。賊は尼僧に向かって平伏し、「私はかつて山本大尉の部下で、山本大尉は命の恩人とも言うべき人。その恩人の奥さんのところへピストルを持って忍び込むとは無礼の段、平に御免」と言うなり、ピストルをこめかみに当てて自殺しようとしたが、尼僧はそれを押しとどめて賊を諭した。「おまえは根っからの悪人ではない。誰かが行けとそそのかしたのであろう。誰が行けと言うた」 盗人は、「へぇ、阿弥陀が行け(=池)と言いました」、が落ち。

茶屋迎え
茶屋通いに目覚めた若旦那、居続ける親不孝の若旦那を迎えにやる旦那。ところが迎えにやった友達・番頭何れもミイラ取りがミイラになっているようだ、私が迎えに行きます。と出掛けるがお茶屋で昔なじみの芸者に出会い良い気持ちの所へ若旦那がくる、そこで旦那が「親不孝者めが」、が落ち。

素晴らしい好天気の中のウオーキング、本日の歩数計は、10202歩。


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フェルメール展

2019年04月20日 | 催事

昨日、玄関前にはフェルメールの青を連想させる青のパンジーが並べられた大阪市立美術館でのフェルメール展へ。
混雑するのでは、と購入していた前売券を持って相棒と共に開門前に到着。
なんと一番乗り、しばらくすると私達と同じように考えた人たちが列に並びだしました。
(写真下左・「マルタとマリアの家のキリスト」、写真下右「取り持ち女」)

9時30分開館と同時に、二作品ずつ三つの展示室に展示されている一番奥のフェルメール作品展示室へ。
数十センチの近さでゆっくりと鑑賞できました。
最初の展示室へ戻ろうとしていますと、館内放送で入場者100万人目達成、との放送がありました。
(写真下左・手紙を書く婦人と召使」、写真下右「手紙を書く女」

もう一度、フェルメール6作品を鑑賞し、平成12年この美術館で公開されたフェルメール展で「真珠の首飾りの少女」の青いターバンを見た衝撃を思い出しながら帰途に。
(写真下左・リュートを調弦する女」、写真下右・恋文」)


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伊賀から甲賀へ

2019年04月16日 | 司馬遼太郎記念館
昨日、司馬遼太郎記念館ボランティアツアーで伊賀から甲賀を訪ねてきました。
今回のツアーは、現在記念館での企画展「梟の城」の主人公が忍者ということから、日本の二大忍者の里を巡りました。
伊賀上野城ではソメイヨシノは散っていましたが八重桜が咲きだしていました。

行程は、近鉄八戸ノ里駅前⇒近畿・西名阪・名阪道⇒伊賀上野公園(伊賀流忍者博物館他自由散策)⇒上野忍者ドライブインで昼食⇒高倉の「街道をゆく」文学碑⇒御斎(おとぎ)峠⇒信楽陶芸村⇒甲賀流忍術屋敷⇒新名神・近畿道⇒八戸ノ里駅前。

8時前、バス二台に分乗した80余名が出発。
伊賀上野公園着伊賀流忍者博物館見学後、自由散策で伊賀上野城前から西側の高石垣(大阪城とほぼ同じ約30mの石垣)を見学。

当地は芭蕉生誕地であり俳聖殿(昭和17年松尾芭蕉生誕300年を記念して芭蕉の旅姿を模した建物・重文)・芭蕉翁記念館(昭和34年地元の寄付により建設・翁の真蹟をはじめ連歌俳諧に関する資料等を保存展示)を見学。

司馬遼太郎の作品「街道をゆく(甲賀から伊賀への道)」の取材ルートを辿ります。
伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説「梟の城」の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。
御斎峠では、91段の階段を上って頂上からの伊賀市内を望む眺望を楽しみました。
(写真上・文学碑と炭焼き窯、写真下・御斎峠)

御斎峠を越え信楽で陶芸村へ寄って昭和9年造の登り窯、甲賀では甲賀流忍術屋敷(甲賀流忍術の当主望月氏本家旧宅)へ。

素晴らしい天候の中、無事全行程を終え帰路に。
予定より早い6時半前に八戸ノ里駅前着。
伊賀(亡父の故郷)では花筵・甲賀(亡母の故郷)では満開の桜を楽しむことのできた素晴らしい旅でした。
いつもお世話頂く運営委員を始め記念館の皆様方有難うございました。
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