大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

阿蘇と高千穂の旅(その4)

2024年05月27日 | 阿蘇と高千穂の旅
今回の阿蘇と高千穂の旅で珍しかったことや印象に残ったことを記載します。
1・阿蘇を牧場化するため山焼きをしたそうで、車窓から雄大な緑の中をゆったりと草を食む赤牛・黒牛や馬をあちこちで見ることができました。

神話の国高千穂では、行きたかった高千穂神楽を観賞することができたほか、今もあちこちで神話が生きていることが実感できました。

2・天岩戸神社では、天照大神の像。高千穂峡にある半月の岩形を月形といいます。
月型・・天照大神の弟の素戔嗚尊の乱暴が原因で天照大神が岩屋に隠れましたが、その後素戔嗚尊は八百万の神々の裁きを受け、所払いとお詫びの証を造ることになりました。素戔嗚尊は天照大神を日の光る太陽として日形を彫り、自分の光は月の半分もないからと、三日月の穴を彫り、その後高天原を去り出雲に行かれたと伝えられています。日形は江戸時代の文献には残っていますが現在は壊れています。

3・高千穂には独特の注連縄があります。
注連縄の起源は、天照大神が再び天岩戸に引きこもらないように、岩戸の前に張り巡らした縄に始まるといわれます。
高千穂の注連縄には特徴があり、右から7本、5本、3本の標(藁茎)がさがっています。
これは高千穂の神楽の祭場や舞いの由来を述べる唱教に由来し「七は天神七代、五は地神五代、三は御祖の神(日向三代)」を表しており、標一本が一柱の神を意味しているそうです。注連縄を七五三縄と書くのはここからきているようです。

4・阿蘇神社や門前では、本当にきれいな水があふれ出ていて私たちも飲み水として飲ませていただきました。冷たくてとても美味しかったです。熊本に台湾の半導体企業TSMC(写真下右)が進出してきた最大の要因が、豊かな湧水のあることであったようです。

5・最後は、熊本と言えばくまモンで、あちこちで出会い肩書通り、熊本県営業部長兼熊本県しあわせ部長の役割を果たしていました。

今回も、天候に恵まれ相棒と共に本当に楽しい旅となりました。
次も相棒と出かけられるように、健康に留意したいと思っています。
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阿蘇と高千穂の旅(その3)

2024年05月26日 | 阿蘇と高千穂の旅
5月21日、阿蘇と高千穂の旅の最終日。

出発前に、昨夜高千穂神楽を見に行った高千穂神社に参拝。
約1900年前の垂仁天皇時代に創建。高千穂郷八十八社の総社で高千穂神社の本殿 (江戸時代前期(1778年)の建立)は、国の重文で境内には樹高55m、最大幹周9mの大杉で畠山重忠の手植えと伝えられている父杉(町指定天然記念物)を含む大樹が多くあり神域として大切に保護されている。

剣道の絵馬がありましたので、長男が生涯剣道が続けられるよう祈念し奉納してきました。
ホテル発8時、高千穂峡真名井の滝の前でのボート乗りへ。
上流でバスを下車、川沿いを下りながら80m前後の柱状節理の素晴らしい渓谷を下ります。
急の下りですので、安全のため相棒はタクシー利用。

高千穂峡は、27万年前・14万年前・12万年前・9万年前の阿蘇火山活動の噴出した火砕流が、五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、急激に冷却されたために柱状節理のすばらしい懸崖となった峡谷。

貸しボートから見上げる真名井の滝は迫力満点!落差17メートルを体感できます。
次は、神話の天岩戸神社へ。

天岩戸神社・天安河原
日本神話(古事記・日本書紀)の中に書かれている天照大御神のお隠れになられた天岩戸と呼ばれる洞窟が御神体として御祀りしており、天岩戸神話の舞台となった場所。
神職のご案内で、西本宮から対岸の山肌にある天岩戸を参拝。(写真撮影不可)
写真上西本宮

西本宮の対岸にある東本宮は100段ほど石段を上ったところにあるそうですが、時間が無く入り口の鳥居から参拝。
写真上東本宮

岩戸川をはさんで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも天照大御神様を御祭神として御祀りしており、川上には八百萬の神々がお集まりになり、御相談をされた天安河原(写真上)がある。
最後の訪問地阿蘇神社へバス移動。

阿蘇神社
創立は孝霊天皇9年(紀元前282年)と伝えられ、約2,300年の歴史を有しており、全国に約500社ある阿蘇神社の総本社。
古来、阿蘇山火口をご神体とする火山信仰と融合し、肥後国一の宮として崇敬をあつめている。
天保6年(1835年)から嘉永3年(1850年)にかけて、熊本藩の寄進によって再建されたもので、神殿や楼門などの6棟は国重要文化財に指定されている。中でも楼門は九州最大の規模を誇り、日本三大楼門の一つともいわれる。

熊本地震により楼門・拝殿が倒壊(復旧済)するなど、重文以外の社殿についても甚大な被害を受け、現在復旧工事中。

見学後昼食、熊本空港へ。本日の歩数計、15689歩。
17時20分発の全日空で伊丹へ、定刻通り無事到着。
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阿蘇と高千穂の旅(その2)

2024年05月25日 | 阿蘇と高千穂の旅
5月20日、阿蘇と高千穂の旅2日目。
朝食前、霧島ツツジも少し残っているホテルの庭園を散策、大きなブランコ越しに阿蘇五岳が望めました。

ホテル発8時45分、渓谷美と紅葉の美しさは九州随一と謳われ、日本森林浴の森百選・日本名水百選・日本の滝百選・水源の森百選等に選ばれている菊池渓谷へ。

阿蘇外輪山の北西部標高500~800mに広がる自然休養林で菊池川沿い両側の遊歩道を各々散策。

ビジターセンターから赤い橋を渡って菊池川左岸を上ります。
掛幕の滝、黎明の滝から天狗滝を経て四十三滝まで、きれいな水の流れの瀬音や小鳥のさえずりを聞きながら天然のクーラーの良く効いた林を進みます。
少し戻って対岸に渡り、竜ヶ淵経由で川沿いを下ります。

次は、相棒にとって忘れられない熊本城です、というのは2016年の熊本地震の2日前熊本城を訪問していたのです。
熊本城は、慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じて、名城熊本城を完成させた。
写真下左天守閣と本丸御殿・手前左の石垣は未復興

その後、豊前小倉城の城主だった細川忠利は、2代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、肥後に入国した。細川家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、戦国の世の中をくぐり抜けてきた大名家です。
写真下左・加藤清正公像、下右・左手前の石垣は細川家築造・奥の石垣は加藤清正築造

その後、復興に向け関係者の絶大なる努力の結果、天守閣他主要部分の復興にこぎつけていますが、まだ石垣等覆いのかかった場所を数カ所目にし、完全に以前の状態に戻るまでなお時日を要するようです。
写真下左・数寄屋丸(石垣未復興)、下右長塀

天守の最上階にまで上り、加藤清正から細川氏の歴代城主の気分を味わいました。
その後、天守閣南側の長塀を見学して昼食。
見学後、宮崎県高千穂のホテルへ。

夕食後、近くの高千穂神社神楽殿にて高千穂神楽の見学へ。
高千穂神社・・主祭神高千穂皇神。
高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。
境内の父杉 ・ 町指定天然記念物。樹高55m、最大幹周9mの大杉で畠山重忠の手植えと伝える。

高千穂の夜神楽
平安末期から鎌倉時代にかけて成立した。江戸時代の末頃まで高千穂神社の神職を中心に伝承し奉納されている。
その後、三十三番に整えられ、集落ごとに伝承されるようになり、代々誇りをもって受け継がれてきた。
写真下左25番「手力雄の舞」・下右26番「鈿女の舞」

高千穂神社境内の神楽殿で毎晩20時より1時間、三十三番の神楽の中から代表的な4番「手力雄の舞」「鈿女の舞」「戸取の舞」「御神体の舞」を公開している。国の重要無形民俗文化財。
写真下27番「戸取りの舞」

舞台は、正面奥に天岩戸が設えてあり、その前には一間四方の外注連が設けられ、神楽が舞われる中央には二間四方の内注連の神庭がつくられています。
写真下15番「御神体の舞」

観賞した4番の夜神楽の内容は、天照大神が天岩戸に隠れられてしまった折に、岩戸の前で天鈿女命が調子面白く舞ったことにより、神々が大笑いし、不審に思った天照大神が姿を表したという日本神話が題材にされています。

200名近い観客を前に各々の面を付けた踊り手が太鼓と笛の演奏に合わせて各番ごとの舞を見せてくれます。
約1時間の舞台でしたが、真剣な舞とコミカルな舞があり、とても楽しく観覧できました。
本日の歩数計、12710歩。相棒と共に今夜もよく眠れました。





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阿蘇と高千穂への旅(その1)

2024年05月22日 | 阿蘇と高千への旅
5月19日から二泊三日で、阿蘇と高千穂へのツアーに相棒と共に参加。
伊丹発9時20分の全日空で熊本空港へ、予定通り10時30分着。総勢38名で観光バスに乗り込み、最初の目的地阿蘇の草千里へ。

車中から、一面に広がる緑の草原とそれを取り囲む外輪山や阿蘇五岳と放牧されている赤牛・黒牛や馬を眺めながら走ります。
牧場にするため野焼きをし一面の緑を維持されているようです。

草千里ヶ浜では、正面に薬師岳が雄大に広がり、その前では乗馬を楽しむ観光客や右手には噴煙を上げる中岳も望め今も火山であることが実感できました。

昼食後、大観峰へ。

大観峰は、標高は約935mで、阿蘇を代表する絶景スポットです。ここからは360度の大パノラマが楽しめ、阿蘇の街並みや阿蘇五岳、くじゅう連峰までが一望できます。ここから望む阿蘇五岳は、お釈迦様の寝姿に見えることから涅槃像と呼ばれています。
写真下仰向けの涅槃像の顔・根子岳、胸・高岳、両膝・中岳と烏帽子岳

雄大な眺望を楽しみ今夜の宿へ。
温泉と美味しい夕食の後は、星空観測に参加、観測前にロビーで解説と100名近い参加者によるじゃんけん大会。
相棒は最後の5人に勝ち残り、景品のくまもんタオルをゲットし満面の笑み。
写真下右は、星空観測の会場にあったブランコで、この横で観測しました。(翌朝撮影)

真っ暗な中、懐中電灯で足下を照らしホテル内の庭園を進み、案内人の懐中電灯を消しての合図で消灯。
夜空を見上げ星空の解説、ふたご座・大三角形・や北斗七星等を見つけました。
特に、スプーンや柄杓にたとえられる北斗七星は肉眼でもはっきりと観ることができたのは感激でした。
この地は、星空観測では有名で書籍(写真下左)でも紹介されています。
私のカメラでは、星空は写りませんので開設時のビデオの写真です。(写真下右・北斗七星)

少し寒かったので早めにホテルへ帰り、阿蘇温泉をもう一度満喫しグッスリ。
本日の歩数計、9813歩。

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葵祭(正式名・賀茂祭)

2024年05月16日 | 催事
昨日、葵祭へ相棒と出かけました。
京都駅8時50分集合、地下鉄で丸太町駅下車し京都御所建礼門前の有料観覧席へ10時前到着。

本日の天候は曇りの予報ですので観覧日和、10時30分建礼門院をスタートする行列「路頭の儀」が始まります。

「路頭の儀」は、賀茂社(下鴨神社と上賀茂神社の総称)で「社頭の儀」を行うため各神社へ向かう道中のことで、宮廷装束をまとった511名の人々と馬36頭、牛4頭、牛車2基、輿1台の長さ約1キロに及ぶ大行列で、近衛使代が主役の本列(第1列から第3列)と葵祭のヒロイン斎王代を中心とした斎王代列で構成されます。

先頭が私たちの前を通過後、次々に鮮やかな色彩の平安装束をまとった人々が目の前を通り過ぎていくのを見ていますと、自分がその時代にいるような錯覚を覚えます。

本日の主役である、近衛使代(勅使)や斎王代の衣装は特にあでやかで、ひときわ目を引き本日の主役であることが認識できました。

命婦や騎女も凛として、その役割を演じておられます。

主役以外の人々のほか藤の花で美しく飾られた牛車・風流傘や小道具も立派で、行列の豪華さを演出しています。

葵祭は約1500年前欽明天皇の時代、京都に飢餓や疫病が蔓延した際、勅使を遣わし賀茂大神の祭礼を行ったことが起源となり、平安時代には勅祭とされました。源氏物語や枕草子にも葵祭のことが記され単にまつりと言えば葵祭のこと指したそうです。

とてもきらびやかな平安絵巻を堪能し、相棒も「よかった」と、私も共にご満悦。
これで三大祭すべて観覧できました。
バスで昼食場所へ移動後、京都駅まで送っていただき帰宅。
相棒の歩数計、10867歩、よく頑張りました。お蔭でよく眠れました。
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