大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

ハンカチの木・ハナイカダ

2017年04月30日 | 植物
先日、当麻寺西南院の庭で珍しい花に出会いました。

一つは、ハンカチの木。
庭園の上の方にまるで白いハンカチが掛かっているように見える木がありました。
以前山の中で遠くに見えるこの木を見たことがありましたが、今回は目の前で見ることができました。

ハンカチの木
ミズキ科。中国原産で2千m位の高原に自生する落葉高木。

4月下旬から5月頃、前年枝に白いハンカチのような花をつける。
花弁はなく、たくさんの雄花と1個の雌花が1つの球形をつくり、大型の2枚の苞に抱かれるような形で開花します。
ハンカチに見立てられるのは、この2枚の大きな苞です。

ハナミズキのような花ですが、花びらのように見える苞が二枚で小さい苞が上、大きい苞が下にあり、下から見上げるとハンカチの上方をつまんで垂らしているように見えます。
花の近くには昨年なった実が多くぶら下がっていました。

別名は、幽霊の木とも呼ばれ、英語ではDove tree(鳩の木)と呼ばれています。

もう一つは、ハナイカダ(花筏)。

牡丹園の一角から相棒が呼んでいます。
行ってみますと、雌雄のハナイカダの木があり、葉の葉脈の主軸の中心部上に小さな2~3ミリの蕾のようなものが乗っています。
写真に撮って拡大してみてみますと、薄緑色の花が咲いています。(写真下は雌花)

ハナイカダ(花筏)
ミズキ科。落葉性低木で雌雄異株。日本全国に分布。
花は淡緑色で、4~5月に葉の中央に通常1個(雌花)または数個(雄花)の花が咲く。果実は1枚の葉に1個つき、黒い液果で種子を2から4個含み、この液果は甘味があり食べられる。(写真下は雄花)

日陰や湿気を好み、寒さには強いが北風の避ける場所での栽培がよい。
名前の由来は、花の載った葉を筏に見立てたもので、日本らしい趣のある名前とともに自然の造形の美に感心しました。
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第3回花の寺 子安地蔵寺・金剛寺・船宿寺・当麻寺西南院

2017年04月26日 | 関西花の寺
昨日、難波発8時40分、参加者47名が満員のバスで阪神高速湾岸線経由和歌山へ。

まず、行基開基の子安地蔵寺へ、門前の藤も咲きだし藤娘と共に出迎えてくれます。
藤の寺で有名らしく境内は藤の樹が多く白花は5分、藤色は3分、珍しいピンク色はまだつぼみでした。
しかし、ツツジ・アヤメ・白や黄の山吹、シャクナゲやミヤコワスレ、日本タンポポ等草花は満開で八重桜もまだ重たげに花を垂らしていました。

相棒は、タブレットで撮影に夢中です。
少し早目の昼食、今回も皆さんから歓声が上がるほどの料理の数々。
相棒は、オカズが多く御飯はほんの少し手をつけただけ、私も満腹でした。

食後奈良県へ戻って、立派な茅葺の庫裏(元禄4年再建)を有する金剛寺(平重盛創建)へ。
仏教伝来と共に施薬として輸入された牡丹を、江戸末期薬草として境内に植えたのが牡丹寺としての始まりです。
牡丹と共に大手鞠の薄緑の花や藤の花も咲きだしていて、もう初夏が間近い事を感じさせます。
また、開花直前の黄色の木蓮に出会えたのはラッキーでした。

次は、山の斜面に建つ行基開基の船宿寺へ。
小堀遠州作の庭園を有し、このお寺の大手鞠の枝を挿し木して広めたという原木にも薄緑の花がたわわにつき、満開の霧島・久留米ツツジやシャクナゲ・シャガが山腹に望めました。

最後は、当麻寺の裏鬼門を守る寺院として創建された塔頭西南院。
庭園の水琴窟の発する澄んだ音に耳を澄ませ見晴らし台へ行ってみましたが、手前の西塔が屋根吹替え中で見ることができず東塔のみ望んできました。途中の脳天仏では脳梗塞の再発防止をお願いして来ました。

庭園には、日除けの番傘を被った色とりどりの満開の牡丹の花やシャクナゲと共に珍しいハンカチの木やハナイカダをゆっくり鑑賞して帰途へ。

今回も各寺院にてご住職から法話をお聞きしました。
印象に残ったのは西南院でお聞きした、
「阿字(仏)の子が 阿字の古里 立ち出でて また立ち帰る 阿字の古里」
人間死は平等に訪れる、寿命を全うしてあの世へ往くまで勉強、勉強は会話をするすべての人の良い所を学び良くないところは学ばない。学んだことは他人にも伝える(徳を積むこと)、ことを実行することにより世の中は良くなる、とのことでした。

今回のガイドさんの時間配分は素晴らしく、各寺院では見るべきところは全てゆっくり見学することができました。
有難うございました。
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犬山城・明治村

2017年04月18日 | 史跡
昨日、司馬遼太郎記念館ボランティアツアーで犬山城と明治村へ。
総勢80名ほどの参加者がバス2台に分乗、7時40分近鉄八戸ノ里駅前を出発。

大阪・京都・滋賀・岐阜・愛知を経由、木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)を越え、桜と共に新緑が美しい景観を車窓から望みながら小牧ICで下車して犬山城へ。
駐車場の満開の枝垂れ桜が迎えてくれています。

犬山城
五つある国宝の城の一つ。現存天守の中では最古。
望楼型の天守は高さ19m・内部4階地下2階(野面積石垣の中)。

天文6年(1537年)信長の叔父織田信康が築城。
天正12年(1584年)小牧・長久手合戦の際には秀吉がこの城に入って小牧山に陣を敷く家康と戦った。
関ヶ原後の慶長15年(1610年)頃、家康の9男義直が尾張に移封されると成瀬正成はその伝役となり、元和3年(1617年)尾張藩の付家老として犬山城を拝領。
その後幕末まで城主と付家老を務める。明治24年濃尾震災をきっかけに再び成瀬氏が天守の所有者となったが平成16年財団の所有となる。

垂直に近い急で段差のある階段を上って4階へ、眼下北側には木曽川・南に小牧山・四方に広がる平地が望める望楼型天守としては最適の場にあることがよく判りました。

明治村に向かっているうち窓外が暗くなった途端激しい雨。
昼食は車内で摂った後明治村入村。

私の目的は、夏目漱石・森鴎外住宅。
学習院長官舎・西郷従道邸を見ながら夏目漱石・森鴎外住宅へ。

明治中期のごくありふれた建坪39坪余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。
明治20年頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを明治23年森鴎外が借家、約一年半を過ごした。又、明治36年から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し文壇に入っていった。その後数々の作品を残し明治の文豪の一人に挙げられる。

一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。
文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。

二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。

現在は漱石居住時に再現されており、書斎は英文学者らしく本箱をはじめ部屋には原書が溢れていました。
座敷机に坐って漱石気分を味わえるようになっていましたので私も便乗させて頂き、子供の頃家にあった漱石や山本有三全集を読んでいたことを思い出していました。

同年生まれの子規とは、第一高等中学校で知り合って以来子規が死ぬまで、お互いの作品を批評し合う交流が続いた。
そんな関係なのでしょう投句箱が設置されていましたので私も真似て一句、
「春の雨 住み心地や如何 名の無い猫」

雨のお蔭で長時間滞在が可能となった幸運に感謝しつつ集合場所へ。
雨中の高速道路を一路八戸ノ里へ、渋滞には遭わず定刻の8時前には到着。
事務局長さんの「私の雨女振りも復活したようです」の挨拶に笑いに包まれた車内、毎年企画して頂く記念館の皆様及び本日お世話頂いた運営委員の皆様有難うございました。

現在新宿区に建設中の漱石山房記念館は今年の9月開館予定です。
その折には訪問したいと思っています。





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背割り桜・石清水八幡宮

2017年04月15日 | 史跡
昨日、相棒が体操友達のKさんと背割り桜(淀川河川公園背割堤・京阪八幡市駅)見物へ。
夕刻帰ってきて楽しかったようで、タブレットで撮ってきた写真を見せてくれます。
まだ、散らずに残っている桜並木は見事なもので、以前に二人で出掛けた時のことを思い出します。

立派な展望台(さくらであい館、高25m)も出来ていて、そこから見下ろす桜並木も美しく、また行ってみたい気持ちが起きました。

桂川・宇治川・木津川が合流し淀川となる地を淀川三川合流域といい、宇治川と木津川を隔てている堤防を背割堤と呼び、その両側に植えられたソメイヨシノ約250本・1.4キロの桜並木は、まさに桜のトンネル、そこを歩く快感は何物にも代えがたいものです。

また、昨年国宝に指定された石清水八幡宮のあの急な坂道を往復してお参りしてきたそうです。
貞観2年(860年)創建以来公家や武家等から広く崇敬され、その後度々焼失するもその都度復興。
現在の社殿は、信長・秀吉・秀頼・家光の造営によるものです。

投稿している横で相棒は、昨日はよかった、ものすごい綺麗だった、楽しかったと感激の余韻から覚めていません。
今回は、相棒が撮ってきた写真を掲載しました。



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東林院精進料理体験と退蔵院枝垂れ桜

2017年04月12日 | 催事
昨日、妙心寺塔頭東林院での精進料理体験へ。
沙羅双樹の寺として名高い東林院へは、沙羅双樹を観に行ったことがありましたが、精進料理体験ができることは知りませんでした。

高大同窓会の皆様5名と相棒とで行って来ました。
出掛けに降っていた雨も上がり車窓からは満開の桜を堪能しJR花園駅着。

庫裏の一室で受け付けを済ませエプロン着用して台所へ。
本日のスケジュール、
10:00 和合茶礼(レシピ説明)
10:30 料理作り開始
11:40 終了・盛付・整理・配膳
12:00 試食並びに昼食会
12:40 片付け
13:00 分散茶礼

西川住職より、テキスト「寺のおばんざい」に沿って
まず精進料理とは修行僧の簡素な食事であって単に肉や魚を殺さない(不殺生戒)だけではなく、口にする野菜果物を大切にするという心、つまり生かす心に目覚める。そして精進本来の意味「物事に精魂込めてひたすらに道に進む」を理解し「食事五観文」を自覚し食事に関わる全ての人とモノに感謝と反省をする。

次いで、本日のレシピ
①五目豆腐のキャベツ包み②竹の子のピリ辛炒め③大和芋とワケギの酢の物の説明。

本日の参加者15名(男性4人うち1名は外人)を4班に分け各班ごとの割り当てられた材料の調理開始です。
私以外の相棒を含む女性3名は、何の相談をすることなく各々近くにある材料を手にし調理開始。
調理をしたことのない私は、ほとんど傍で見ているだけでしたが材料がどんどん変身していき、材料のままでは口にできないものが完成品として器に盛り付けられたのを目の前にした時には思わず「デキタ!!」。
本当に驚き感動し女性の力の偉大さを感じた瞬間でした。
調理の間、ご住職と手伝いの女性からの叱咤を受けながら黙々?と手を動かし続けた方達には頭が下がります。

配膳後別室にて昼食会。
私達の作った料理の他にも数品あり、美味しく頂き満腹。
食後、五観文を唱和。
五観文
①一つには、功の多少を計り彼の来処を量る。(食事には多くの手が費やされていることを知りその恩恵を忘れるな)
②二つには、己が徳行の全欠をはかって供に応ず。(自分の人格の完成を目指し又務めを成しとげるため食事をする)
③三つには、心を防ぎ過貪等を離るるを宗とする。(食べ物に不平不満を抱かず過食過飲の心を起さず食事は心の修業である)
④四つには、正に良薬を事とするは形枯を療せんが為なり。(食事は飢えや渇きをいやし心身の枯死を免れる良薬と思い、決しておろそかに食べない心平和な心持ちで食す)
⑤五つには、道業を成ぜんが為に将にこの食をうくべし。(正しく生きることを成就するための食事に対し反省と感謝を心に持ち新たな誓いを心を持ち行う)

食後、同じ塔頭の退蔵院へ。
雨の中でしたが余香苑内の見事な満開の紅枝垂れ桜・山吹・紅花トキワマンサクに出会うことが出来、方丈では狩野元信作の枯山水の庭園と水琴窟や如拙が画いた国宝瓢鮎図(レプリカ)を鑑賞してきました。
瓢鮎図ー日本の初期水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画。国宝。室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案(禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題)を描いたもので画面上半には、大岳周崇の序と玉畹梵芳など30人の禅僧による画賛がある。

梅田に戻ってティータイムでも楽しい一時を過ごし相棒もご満悦。
ご一緒頂いた歴考M氏・カルチャーのN・A・O・Iさんご参加頂き有難うございました。

コメント (2)
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