昨日、青春切符の残りの一枚を使って福井県三方へ。
最寄りのJR鶴橋駅発7時14分・大阪・敦賀で乗り換え小浜線上中駅着11時33分。
同乗者の中には青春切符の愛好者らしい年配者多数。
車窓には明るい陽射しを受け穂先を黄色く染めた稲穂が目立っていて、山、川、田のある日本の原風景を思い、残り少ない人生ですが本当に日本に生まれて良かったと思える瞬間です。
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敦賀駅での待ち時間(54分間)を利用して、大谷吉継の菩提寺(慶長14年造立の供養塔もあり)永賞寺へ。
この地は、大谷吉継が敦賀城主を務めたことがあり縁の地も多いのです。
気比神宮の例大祭敦賀祭を見学に来たことがありますが、その時は時間に余裕が無く行けませんでしたので永賞寺へ。
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大谷吉継
永禄8年(1565年)誕生。
母は秀吉の正室の侍女で東殿と呼ばれた女性(出自は不詳)、父親は不明ですが京都青蓮院門跡の坊官大谷家の系図に吉継の名があるので父親或いは東殿が大谷家の可能性があり、青蓮院は鎌倉時代から敦賀を支配していた実績があり敦賀との縁は吉継より以前からあったようです。
14歳で秀吉の中国攻めに参陣。19歳で賤ヶ岳の戦の直前敵の吉村又吉郎の調略に成功し今尾城の開城に立ち会い。
25歳(1589年)で敦賀城主。秀吉の死後家康に接近。36歳(1600年)の時家康に従い上杉討伐へ向かう途中、石田三成と佐和山で会談西軍につくことを決意。
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関ヶ原の戦いでは藤堂高虎と激突善戦するが、小早川秀秋や脇坂安治の裏切りによる横槍をまともに受けて隊は壊滅、その中で自刃。
辞世の句 「契りあらば 六つの巷に 待てしばし 遅れ先立つ こともありとも」
敦賀城時代には、大坂に経済の中心をつくる秀吉の政策を敦賀で推進。
その象徴が伏見城築城に際し秋田杉(太閤板)を東北から敦賀へ回漕した。
大谷吉継は、不治の病に冒されながらも「忠義と友情」に殉じた戦国の智将であった、と今も語り継がれています。
関ヶ原の戦いの9年後に永賞寺の供養塔が建てられていることからも当時から慕われていた証しでしょう。
上中駅から炎天下を徒歩で15分、目的地瓜割の滝へ。
汗をかきながら到着、手前の公園では母子が池の周りの木陰で遊んでいます。
小さな木の鳥居を潜ったあたりから樹木が大きくなり空気がひんやりとしてきます。
すぐに少し開けたところの先にお目当ての滝が見えてきました。
余りのも小さな滝で、少し失望しかけましたが流れに手を浸けてみて、その冷たさにビックリ。
また流れの横に柄杓があり、ひょっとしたら飲めるのか?
用心して口を漱ぐだけにしましたが、いっぺんに汗が引いたのと同時にその景色の素晴らしいこと。
滝口から落下した清水が苔むした岩肌の間を幾筋にも別れ、また会って流れる様は、まるで一幅の絵画のよう。
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瓜割の滝
若狭町の天徳寺境内奥の山あいの岩間から湧き出る清泉で、一年を通して水温が変わらず夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たいことから、その名前が付けられた。
そのことは、当地方の地誌「拾椎雑記」にも記載がある。
「名水百選」(環境省)・「水の郷」(国交省)・「ふくいのおいしい水」(福井県)認定。
全国名水百選のおいしい水部門第2位で保存期間についてもトップクラスにランクされている。
古来、この湧水の水神に対する近在近郷の信仰は厚く、旱魃の際にはこぞってこの地に雨乞いの祈願をした、との記録が多く残っている。
また、滝壺あたりに散在する赤い石は、この水質水温でのみ生育する「ヒルデンブリンチアリブラリス」という紅藻類が繁殖の結果です。
すっかり汗もひきましたが次の列車までは大分時間がありますので、お土産に買った羽二重餅を一口。
最後の目的地みかた温泉の最寄駅に着いたのは13時26分。
駅員さんに昼食場所を尋ねましたら、三方五湖で獲れるうなぎが美味しい、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/5b/12ed957e5caf403f00aaf1622a49762b.jpg)
みかた温泉に行く途中のうなぎ屋さんで遅めの昼食後、みかた温泉きららの湯で本当の汗を流し浴後は生ビールで人心地。
後は来た道を帰るのみ。同乗者の中に青春切符愛好者はいないようでした。
ウツラウツラする内大阪着、帰宅したのは8時を回っていました。
約13時間の旅を終え、夜中一度の起きることなくぐっすりでした。
最寄りのJR鶴橋駅発7時14分・大阪・敦賀で乗り換え小浜線上中駅着11時33分。
同乗者の中には青春切符の愛好者らしい年配者多数。
車窓には明るい陽射しを受け穂先を黄色く染めた稲穂が目立っていて、山、川、田のある日本の原風景を思い、残り少ない人生ですが本当に日本に生まれて良かったと思える瞬間です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ad/3fb053345a56600974946ae55f0427b6.jpg)
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敦賀駅での待ち時間(54分間)を利用して、大谷吉継の菩提寺(慶長14年造立の供養塔もあり)永賞寺へ。
この地は、大谷吉継が敦賀城主を務めたことがあり縁の地も多いのです。
気比神宮の例大祭敦賀祭を見学に来たことがありますが、その時は時間に余裕が無く行けませんでしたので永賞寺へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/3a/46713905cba176bd78b85f6cd63524cf.jpg)
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大谷吉継
永禄8年(1565年)誕生。
母は秀吉の正室の侍女で東殿と呼ばれた女性(出自は不詳)、父親は不明ですが京都青蓮院門跡の坊官大谷家の系図に吉継の名があるので父親或いは東殿が大谷家の可能性があり、青蓮院は鎌倉時代から敦賀を支配していた実績があり敦賀との縁は吉継より以前からあったようです。
14歳で秀吉の中国攻めに参陣。19歳で賤ヶ岳の戦の直前敵の吉村又吉郎の調略に成功し今尾城の開城に立ち会い。
25歳(1589年)で敦賀城主。秀吉の死後家康に接近。36歳(1600年)の時家康に従い上杉討伐へ向かう途中、石田三成と佐和山で会談西軍につくことを決意。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/19/d718e0cf7026b5bf347bac4c8eeac52f.jpg)
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関ヶ原の戦いでは藤堂高虎と激突善戦するが、小早川秀秋や脇坂安治の裏切りによる横槍をまともに受けて隊は壊滅、その中で自刃。
辞世の句 「契りあらば 六つの巷に 待てしばし 遅れ先立つ こともありとも」
敦賀城時代には、大坂に経済の中心をつくる秀吉の政策を敦賀で推進。
その象徴が伏見城築城に際し秋田杉(太閤板)を東北から敦賀へ回漕した。
大谷吉継は、不治の病に冒されながらも「忠義と友情」に殉じた戦国の智将であった、と今も語り継がれています。
関ヶ原の戦いの9年後に永賞寺の供養塔が建てられていることからも当時から慕われていた証しでしょう。
上中駅から炎天下を徒歩で15分、目的地瓜割の滝へ。
汗をかきながら到着、手前の公園では母子が池の周りの木陰で遊んでいます。
小さな木の鳥居を潜ったあたりから樹木が大きくなり空気がひんやりとしてきます。
すぐに少し開けたところの先にお目当ての滝が見えてきました。
余りのも小さな滝で、少し失望しかけましたが流れに手を浸けてみて、その冷たさにビックリ。
また流れの横に柄杓があり、ひょっとしたら飲めるのか?
用心して口を漱ぐだけにしましたが、いっぺんに汗が引いたのと同時にその景色の素晴らしいこと。
滝口から落下した清水が苔むした岩肌の間を幾筋にも別れ、また会って流れる様は、まるで一幅の絵画のよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/b2/b78276b6d06458df6403067e81b06c84.jpg)
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瓜割の滝
若狭町の天徳寺境内奥の山あいの岩間から湧き出る清泉で、一年を通して水温が変わらず夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たいことから、その名前が付けられた。
そのことは、当地方の地誌「拾椎雑記」にも記載がある。
「名水百選」(環境省)・「水の郷」(国交省)・「ふくいのおいしい水」(福井県)認定。
全国名水百選のおいしい水部門第2位で保存期間についてもトップクラスにランクされている。
古来、この湧水の水神に対する近在近郷の信仰は厚く、旱魃の際にはこぞってこの地に雨乞いの祈願をした、との記録が多く残っている。
また、滝壺あたりに散在する赤い石は、この水質水温でのみ生育する「ヒルデンブリンチアリブラリス」という紅藻類が繁殖の結果です。
すっかり汗もひきましたが次の列車までは大分時間がありますので、お土産に買った羽二重餅を一口。
最後の目的地みかた温泉の最寄駅に着いたのは13時26分。
駅員さんに昼食場所を尋ねましたら、三方五湖で獲れるうなぎが美味しい、とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/5b/12ed957e5caf403f00aaf1622a49762b.jpg)
みかた温泉に行く途中のうなぎ屋さんで遅めの昼食後、みかた温泉きららの湯で本当の汗を流し浴後は生ビールで人心地。
後は来た道を帰るのみ。同乗者の中に青春切符愛好者はいないようでした。
ウツラウツラする内大阪着、帰宅したのは8時を回っていました。
約13時間の旅を終え、夜中一度の起きることなくぐっすりでした。