相棒のお供で近所のスーパーへの通り道、お寺の門前で「百八の 煤の煩悩 はき難し」の掲示板を見つけました。
人間は数えきれないほどの煩悩を持ち、それらはとても捨てることは難しい、だから精進せよ、との意味合いでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ba/f249cbbeea4e2e7d5d6c3d1d602537e4.jpg)
百八の煩悩
仏教では、煩悩とは「人間の心身を乱し悩ませ、悟りに至る道を妨げる心の働き」と説明され、無明(分別がつかず何もわからなくなっている)という状態と三毒(貪欲・欲張って歯止めが無い心、瞋恚・激しい怒り、愚痴・真理を知らず愚かであることの三つの心)と呼ばれる心から煩悩が発生するとされている。
煩悩は、無明や三毒といった、数としては少ない原因から生まれるにもかかわらず108もあるという説の一つが六根説。
六根説とは、人間の五感【眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)】と心の働き【意(意識)】の六つが煩悩を生み出すもとになるという趣旨の説。
六根が、色(映像)・声(音声)・香(におい)・味(味覚)・触(触感)と法(心の動き)の六塵(ろくじん)を生む。
六塵が、好(良い)・悪(悪い)・平(どちらでもない)の三つの感情を生む。
好・悪・平は、さらに染(きたない感情)と浄(清らかな感情)二種類に分類。
染・浄は、さらに過去・現在・未来の三種類に分類。
ここで分類された感情は、六塵(6)×好・悪・平(3)×染・浄(2)×過去・現在・未来(3)パターンだけ存在することになる。
つまり、6×3×2×3=108となるわけです。これが煩悩が108ある理由です。
般若心経には、六根の六つの煩悩や六塵の六つの言葉が出てきていて、これらの言葉の前に「無」の文字が付いているのは、これらの感情を持つな、との戒めであることが理解できました。
人間は、限りない欲や激しい怒りを持ち真実を知らずにいることにより分別する心が失われ、上記108の煩悩が生まれ悟りの境地への到達の障害になるようです。
凡人である私は、結局、何事にも腹八分目でよく考えて過ごすことが大切である、ということではないかという考えに至りました。
来年も当分コロナで大変な年になりそうですが、心穏やかに相棒とともに過ごしたいと願っています。
皆さんもよいお年をお迎えください。
人間は数えきれないほどの煩悩を持ち、それらはとても捨てることは難しい、だから精進せよ、との意味合いでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ba/f249cbbeea4e2e7d5d6c3d1d602537e4.jpg)
百八の煩悩
仏教では、煩悩とは「人間の心身を乱し悩ませ、悟りに至る道を妨げる心の働き」と説明され、無明(分別がつかず何もわからなくなっている)という状態と三毒(貪欲・欲張って歯止めが無い心、瞋恚・激しい怒り、愚痴・真理を知らず愚かであることの三つの心)と呼ばれる心から煩悩が発生するとされている。
煩悩は、無明や三毒といった、数としては少ない原因から生まれるにもかかわらず108もあるという説の一つが六根説。
六根説とは、人間の五感【眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)】と心の働き【意(意識)】の六つが煩悩を生み出すもとになるという趣旨の説。
六根が、色(映像)・声(音声)・香(におい)・味(味覚)・触(触感)と法(心の動き)の六塵(ろくじん)を生む。
六塵が、好(良い)・悪(悪い)・平(どちらでもない)の三つの感情を生む。
好・悪・平は、さらに染(きたない感情)と浄(清らかな感情)二種類に分類。
染・浄は、さらに過去・現在・未来の三種類に分類。
ここで分類された感情は、六塵(6)×好・悪・平(3)×染・浄(2)×過去・現在・未来(3)パターンだけ存在することになる。
つまり、6×3×2×3=108となるわけです。これが煩悩が108ある理由です。
般若心経には、六根の六つの煩悩や六塵の六つの言葉が出てきていて、これらの言葉の前に「無」の文字が付いているのは、これらの感情を持つな、との戒めであることが理解できました。
人間は、限りない欲や激しい怒りを持ち真実を知らずにいることにより分別する心が失われ、上記108の煩悩が生まれ悟りの境地への到達の障害になるようです。
凡人である私は、結局、何事にも腹八分目でよく考えて過ごすことが大切である、ということではないかという考えに至りました。
来年も当分コロナで大変な年になりそうですが、心穏やかに相棒とともに過ごしたいと願っています。
皆さんもよいお年をお迎えください。