大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

「北斎~富士を越えて~」展(大英博物館国際共同プロジェクト)

2017年10月29日 | 催事
昨日、相棒と共にあべのハルカス美術館「北斎展」へ。
9時前に自宅発、美術館前にはもう行列ができていましたが、私達が入場できたのは思ったより早く9時50分頃。
台風の影響で比較的来館者が少なかったのでしょうか。

本日の展示作品数は160点余、最初から全部見るつもりで行列に並びます。
行列は遅々として進みませんが、所要時間3時間10分をかけて全て間近で鑑賞できたのは幸いでした。

「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」と「同凱風快晴」は、数年前神戸市美術館でのボストン美術館浮世絵名品展で観て以来二度目。
これらは北斎71~74歳の作品だそうですが、丁度私と同じ年頃でこれほどの立派な作品を残されていたとは、さすが天才(ものすごい努力家)。
また、波頭がこのように見えるのは、北斎の眼がカメラの五千分の一の眼と同じであることにも本当に驚きでした。
90歳で亡くなる直前「天があと5年命をくれたなら真正の絵師になれただろう」との言葉を残したと伝わっています。
死を目前にしても画家としての理想を追求した北斎、彼の目指した真正の絵師とは、どんなものだったのでしょう。

西洋の画家や音楽家たちにも影響を与えた北斎の偉大さの一端に触れることができ、また娘の応為さんの美人画も一点でした(出展は三点)が観ることができたのは幸運であり有意義なひと時でした。
また、ドイツドレスデンでの橋の中ほどにこの絵の大波の部分のモニュメントがかけられていた(大雨で川が溢れたのを忘れないためのようでした)ことを懐かしく思い出しました。
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板東俘虜収容所跡・大塚美術館

2017年10月23日 | 高齢者大学
10月20・21日、高大歴考同窓会恒例の一泊旅行、参加者11名(内女性6名)。
行程は、
20日・・難波9時50分発の高速バス⇒ホテルルネッサンスリゾートナルト⇒タクシーにて徳島板東の俘虜収容所跡・ドイツ館・日本初第九演奏ベートーヴェン像⇒ドイツ橋、めがね橋・大麻比古神社(阿波一宮)⇒霊山寺⇒ホテル。
21日・・ホテル⇒大塚美術館⇒ホテル経由高速バスにて難波へ。

連日の雨も何とか収まる気配の中、高速バスで目的地へ、途中車内で弁当の昼食。
ホテルで小休止後、タクシーに分乗しドイツ兵の俘虜収容所跡へ。

板東俘虜収容所
第一次大戦時中国青島にて捕虜となったドイツ兵約4700名を日本に移送、徳島板東では1917年から3年間1028名の捕虜を収容。
捕虜に対してはハーグ陸戦条約により博愛精神を持って対応、松江豊壽所長らの計らいにより自発的な活動を認めたことが生きる力となり、収容所内では出版、音楽、演劇、スポーツ、商工業活動が、収容所外では地元住民との交流が活発に行われた。
敷地面積約57千㎡。

日本各地に造られた収容所の中で一番待遇の良かったのが板東俘虜収容所でした。
それは四国八十八カ所巡りで根付いたお接待の精神によるものではないかと思われます。

第九の全楽章がアジアで初めて演奏されたのがこの地であり、印刷・土木技術やパンの製法等も地元住民に伝えられた。
1960年代からは元捕虜と地元住民の交流の復活は、やがて収容所の活動の記録を顕彰する鳴門市ドイツ館の建設につながった。
集まった626点の資料を「板東俘虜収容所関係資料」とし、ドイツニーダーザクセン州とともに世界記憶遺産として申請するべく調印式が先日行われました。

収容所跡・ベートーヴェン像(ドイツ人作)・大麻比古神社境内のドイツ橋、めがね橋を見学。

ドイツ橋・めがね橋
捕虜が、遠い祖国を偲びながら1日も早く故国に帰れることを願いつつ大麻比古神社神域を散策し、記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。

ドイツ橋は、長9.6m・高3.2mの石積みアーチ橋でドイツ兵捕虜たちが地元住民のために建設したもので現在は通行禁止(徳島県文化財指定史跡)。
めがね橋も長4.3m・高1.2mの石積みで、ドイツ橋近くの池で現在も使用されています。

大麻比古神社と霊山寺にお参りしてホテルへ。
温泉に浸かって疲れを癒した後夕食、その後阿波踊りを見学し部屋にて12時頃まで二次会。

10月21日
朝食後大塚美術館自由見学へ。
我々も数人が館内ツアーに参加。

大塚美術館
大塚製薬創立75周年記念事業として総事業費400億円を掛け徳島県鳴門市に設立。
地下4階の入り口からエスカレーター、地下3階から地上2階にわたる延べ床面積29412㎡の常設展示スペース(日本最大級)を有する「陶板名画美術館」。

古代壁画から世界25か国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで、至宝の西洋名画1000余点を特殊技術によってオリジナル作品と同じ大きさに複製されていて、居ながらにして世界の美術館が体験できます。
(日本人が所蔵していたゴッホのヒマワリを終戦直前の大空襲で焼失したが、武者小路実篤記念館所蔵の画像写真より再現された「6輪のヒマワリ」も展示・下記写真)

陶板名画は1300度で焼きつけられ、原画と違って今後2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので文化財の記録保存に大いに貢献。

9時40分スタートの館内ツアー参加者数十名、地下3階のシスティーナ礼拝堂壁画(ミケランジェロ)からスタート。
約2時間を要するツアーでの解説員の丁寧でよどみない説明に完歩した数十人の参加者は、疲れているのでしょうが充実感、満足感に満たされた顔をされていました。
同じ作家の作品は全世界の美術館に分散されていますので、作家ごとに集められた本物と変わりない作品をまとめて観ることができる、この美術館の素晴らしさが実感できました。

2時20分頃まで各自見学を終えホテルへ、高速バスで難波まで約20分の渋滞遅れで到着。
今回は、私の行きたかったところへの旅にご賛同頂き有難うございました。


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秀吉の御座船 

2017年10月19日 | 史跡
先日娘夫婦が来阪、偶々彼女たちのスケジュールが空いている日がありましたので大阪城へ。

JR大阪城公園駅前のJO TERRACE(城テラス・本年6月オープンの飲食施設)で昼食後、青屋門から極楽橋へ。
私は別の用事があり国民会館へ。
相棒と娘夫婦は、極楽橋の袂から御座船に乗船。

御座船
大阪城御座船は、豊臣期の大坂城と城下町を描いた貴重な屏風絵「豊臣期大坂図屏風」(オーストリア エッゲンベルク城所蔵)の中に見られる秀吉の「鳳凰丸」をモデルに、大坂の陣から400年を経た2015年、平和な大阪で秀吉が生きていたら黄金の御座船にするだろうという意を込めて、純金箔3000枚を船の天井や内壁等に使用したもの。

利休と秀吉の黄金の茶室に見られるように黄金をこよなく愛した秀吉の大坂城は、夕日が映えると金色に輝いていたことから金城(錦城)とも呼ばれていました。

現在3艘あり、10分間隔で約20分内堀を遊覧運行中。

3人は、堀から見上げる石垣と天守閣に圧倒されながら、天下人になった気分で「黄金の船 大阪城御座船」を楽しんだようです。
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アサギマダラ

2017年10月14日 | 鳥・昆虫
先日行った料亭筍亭にて、アサギマダラに出会いました。
大きさはアゲハチョウ位で羽が青く大変美しい蝶で、毎年秋には日本各地の藤袴等の蜜を求めて沖縄方面から飛来してきています。
従って、この庭では蝶のために地植えと鉢植えの藤袴を大切に栽培していて、庭のいたるところで見かけることが出来ます。

アサギマダラ
マダラチョウ亜科。

成虫の前翅長は5~6センチほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。
和名にある「浅葱」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。

アゲハチョウ科の様に細かく羽ばたかずにふわふわと飛翔し、また、人をあまり恐れずよく目にするため人気が高い。
日本昆虫学会による国蝶選定の際に、ナミアゲハやアオスジアゲハ等と共に候補に選ばれたが結局はオオムラサキが選定された。
夏から秋にかけてはフジバカマ、ヒヨドリバナ、アザミなどのキク科植物の花によく集まり、吸蜜する姿が見られる。

春から夏にかけては本州等の標高1000メートルから2000メートルほどの涼しい高原地帯を繁殖地とし、秋、気温の低下と共に適温の生活地を求めて南方へ移動を開始し、遠く九州や沖縄、さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えて飛んでいきます。
海を渡って1000キロ以上の大移動です。台湾・陽明山まで飛んだのはこれまで5個体が確認されていますが、これなど2100キロの飛翔になります。

また逆に冬の間は、暖かい南の島の洞穴で過ごしています。新たに繁殖した世代の蝶(寿命4か月)が春から初夏にかけて南から北上し、本州などの高原地帯に戻るという生活のサイクルをきちんと守っているのです。季節により長距離移動(渡り)をする日本で唯一の蝶なのです。

あのか弱い小さな体で1000キロもの海を渡る力があるのか?特に逆風の時にはどうしているのか?方向はどうして知っているのか?飛んでいる間の食事はどうしているのか?
色々なことがまだ知られていない謎の多い蝶のようで、今後研究が進むことに期待したいものです。
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松尾大社・鈴虫寺

2017年10月12日 | 史跡
昨日、ウエーブ産経の催しで松尾大社へ。
阪急桂駅11時集合、迎えのバスで昼食場所の筍亭へ。

到着後竹林道を散策、玄関前には満開の藤袴の鉢植え、そこへ沖縄からの渡りで有名な蝶のアサギマダラが飛来してきています。

昼食は、タケノコ料理を含む幾品もの料理の数々に満腹。バスで松尾大社へ。
大鳥居前で神職の出迎えを受け境内を案内して頂きました。
鳥居に枯れ木のようなものがぶら下がっています、説明では脇勧請といい、榊の小枝を束ねたものを十二(閏年は十三)下げて月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗だそうです。

松尾大社
太古の昔よりこの辺りの住民が松尾山の神霊を祀って生活守護神としたのを起源とし、京都最古の神社。
5Cの頃渡来人の秦氏がこの地に移住、山城・丹波国を開拓農林業を興し、松尾の神を総氏神とし文武天皇の大宝元年(701年)この地に社殿を造営。

都を奈良から長岡京・平安京に遷されたのも秦氏の富と力によるものとされている。
皇室のご崇敬は極めて厚く行幸数十度に及び正一位の神階を授けられ両賀茂社と共に皇城鎮護の社とされている。

醸造の祖神として全国の酒造家等からは特別な尊崇を受けられ、神輿庫の前には菰樽が100個積み上げられているのはこの神社の名所でしょう。
また、神の使いは亀と鯉だそうで境内のあちこちで見ることができました。
約1時間にわたり由緒や室町時代の本殿(桧皮の葺き替え中)等建築物の説明や曲水の庭等数か所の庭園(重森三玲作)も巡りました。

神社前で解散後、松尾大社駅から帰られる皆さんと別れ、昔二人で松尾大社から苔寺へよく来ていましたが今は予約なしでは入れませんので代わりに鈴虫寺へ。

鈴虫寺(正式名 妙徳山 華厳寺)
臨済宗。
江戸中期享保8年(1723年)鳳潭上人が比叡山で修行後華厳宗再興のため開創。

一年中鈴虫が鳴いていることで有名。
また、入山にあたっては住職の説法を聴くことが条件で、私達も20分ほどお待ちくださいと言われましたが、しばらくして空席があるとのことで入れて頂き待つことなく入れたのはラッキーでした。
本堂内は満席(150人位)、茶礼(お菓子とお茶でもてなす禅の作法)を受け説法をお聴きしました。

山門前の願いを一つ聞き届けて頂けるわらじを履いたお地蔵様にお願いをして阪急北桂駅から帰途に。
本日は、美しい花々や秋らしい景色にも出会い、美味しい料理を頂き相棒共々大満足の一日でした。
いつもお世話になっている産経さん有難うございました。





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