大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

大和郡山市・御殿様御膳の旅

2018年09月30日 | 和食の歴史でめぐる飛鳥・奈良・京都

昨日、「和食の歴史でめぐる飛鳥・奈良・京都」の第6回「大和郡山市・御殿様御膳の旅」に参加。台風24号の接近が報ぜられる中ですので雨は覚悟し出掛けました。
近鉄郡山駅前10時前到着、参加者は約50名弱、4班に分けて地元ボランティアと共に出発。

本日のコースは、
近鉄郡山駅⇒郡山城跡(柳沢神社・柳沢文庫・天守台・極楽橋再建現場・追手門)⇒やまと郡山城ホールにて講演「お殿様(郡山藩主)のための料理」・昼食⇒紺屋町⇒町家物語館⇒源九郎稲荷神社⇒解散

郡山城・・織田信長の後援により大和を統一した筒井順慶が天正8年築城と城下町を整備。秀吉の弟秀長が本格的に近世城郭づくりを進め、その後増田長盛が外堀を普請し城の総構えを整えた。徳川政権下復興に努め享保9年(1724年)柳沢吉保入部、明治維新まで6代に亘って城主を務めた。
明治の廃城令で建造物はすべて取り壊された。
追手門・同隅櫓、向櫓・・昭和50年代市民の寄付で復元。現在極楽橋を復元中。

柳沢神社・・明治13年創建。祭神は五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保。
柳沢文庫・・昭和35年開設。柳沢家から引き継がれた資料や書物を展示。

天守台・・崩落の恐れがあった石垣の修復と展望施設を整備、平成29年完成。展望施設からは、大和郡山の町並みとともに、平城京大極殿・薬師寺・若草山までのぞむことができる。
本日は雨が降ったお蔭で遠くの葛城生駒等の山並みにかかる雲が美しく望めました。

紺屋町・・道路の中央の水路は、お城の堀とつながっていて、当時13軒の紺屋が染め上げた布や糸を晒していた。(現在は遺構を利用して藍染の体験ができる)

町家物語館・・表窓に細い格子がはまった家並みが洞泉寺町にあり、源九郎稲荷神社への参詣人で賑わった江戸時代から続く遊郭の面影を今も残している。当時の建物は珍しい木造3階建で内部を見学できる。

源九郎稲荷神社・・源義経が兄頼朝との戦に際し幾度もこの稲荷に助けられ、この稲荷に源九郎の名を贈ったという伝説が、社名の由来となっている。
人形浄瑠璃・歌舞伎の義経千本櫻で演じられることから歌舞伎役者が多く参詣している。

今回の主題である御殿様御膳は、柳沢文庫に眠っていた明治16年の第六代藩主柳沢吉申の食事の献立表から、町おこしの一環としようしてその食事を再現したもの。東京に居を移していた柳沢吉申を招待して歓待したことは、柳沢吉申が善政を施したことで領民から慕われていたことが想像できます。

スタート時には雨でしたが郡山城天守台到着時には雨も止み、その後も小雨が時々。昼食後は殆ど傘も差さずに歩けたのはラッキーでした。 
金魚の町として知られる大和郡山市らしく町中のあちこちで金魚に触れることもでき、以前相棒と炎天下に金魚の生産地を巡ったことを思い出し大変楽しい一日となりました。
お世話頂いた大和郡山市・歴史街道・地元のボランティアの皆様有難うございました。

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第2回大阪シティーウオーク

2018年09月25日 | 大阪シティーウオーク
9月23日、第2回シティ―ウオークのショートコースに参加。
10時に下福島公園に集合、間もなく準備体操後出発。

コースは、下福島公園⇒莫大小(メリヤス)会館⇒朝日放送⇒福沢諭吉生誕の地⇒蛸の松⇒田簑橋⇒中之島通りを西下⇒大阪府師範学校跡地⇒湊橋⇒雑喉場魚市場跡地⇒木津川橋⇒川口居留地跡⇒川口基督教会⇒中之島漁港⇒河村瑞賢紀功碑⇒安治川トンネル⇒JR西九条駅⇒安治川沿いを東へ⇒おおさかふくしま中之島ゲート海の駅⇒極楽寺(野田城跡)⇒野田恵比寿神社⇒下福島公園。

下福島公園・・室内プール・トレーニング場・野球場が二面とれる運動場を持つ福島区最大の公園。

莫大小会館・・莫大小産業が盛んな福島区の近代建築で蜆川(曽根崎川)を埋め立てた跡地にメリヤスの組合ビルとして建設。設計は堺筋にある生駒時計店等を手掛けた宗兵蔵。

福沢諭吉誕生の地・・天保5年(1834年)この地にあった中津藩蔵屋敷で誕生。

蛸の松・・中之島には諸大名の蔵屋敷が多く設けられ、建ち並んだ蔵屋敷には各藩自慢の松が植えられ人々は白壁と川面に映える松の景色を楽しんだ。中でも広島藩主の福島正則が植えたと伝わる黒松は枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ることから蛸の松と呼ばれ親しまれた。最初の蛸の松は、対岸の大阪府師範学校跡地内にあった。

雑喉場魚市場跡・・延宝年間(1673~81)に鷺島の生魚市場の名称を雑喉場と改め、大坂三郷の中央部に所在していた魚市場を移転させて以来、昭和6年に市営の中央卸売市場に統合されるまで、実に250年以上ものあいだ大阪における魚類取引の中心であった。

川口居留地跡・・明治元年大阪開港と同時にこの地は外国人に競売され居留地を設置。ミッションスクールや教会、病院が建設され、大阪の文明開化は造幣局と共にこの地から始まった。

川口基督教会・・明治2年宣教師来日、明治14年教会設立、大正9年現在の礼拝堂建設。阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが世界中の支援を得て復元された。

河村瑞賢紀功碑・・江戸初期の土木家。幕府から淀川改修を命じられ新しい川を堀り安治川を設置。

安治川トンネル・・昭和19年日本初の沈埋トンネル。長さ80.6mの歩行者、自転車専用トンネル。

極楽寺(野田城跡)・・享禄4年(1531年)頃築かれ、四国の豪族三好一党が改築したと推測。織田信長の拠点として荒木村重が毛利水軍との戦いで立て籠もった。大坂夏の陣以後廃城。

恵比寿神社・・創建時期不明なるも平安時代には存在。当時の大阪湾は現在よりも奥深く入り込んでおり、この地には漁業を生業とする人々が住みつき漁業の神であるエビス信仰が成立した。戦国時代には野田城内に取り込まれ武士からの信仰も得た。

本日のコースは約7キロ、10時過ぎに出発をしゆっくり歩いてきましたが安治川沿いを歩いていますと屋台が多く出ていて時計を見ますとちょうど12時、昼食を摂ることにしマグロのお寿司とビールで一休み。

ゴールした時には1時前、歩数計は16787歩。
安治川トンネルで約100段を上り下りした以外はほとんど平地でしたが少し疲れを感じました。
完歩証を頂き、一休みをしてから帰途に。










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ミステリーツアー

2018年09月23日 | 史跡
昨日、阪急交通社のミステリーツアーに参加。
難波出発7時45分、小雨でしたが中国道を走るうち陽も射してきました。
車窓からは、黄色くなってきた稲穂や彼岸花を楽しみながら走っているうち佐用JCT、北に進路をとり行先が鳥取であることが判明。

帰りの車中で頂いた行程は、
西粟倉村(川沿いのウッドデッキ)⇒鳥取砂丘で昼食⇒多鯰ヶ池(透明度3.5m)⇒梨狩り⇒賀露漁港(セリ体験)⇒白兎神社。

佐用JCTからすぐの西粟倉村着。
道の駅あわくらんど入り口で野菜2キロの詰め合わせ体験(相棒のご希望でキャベツを主にジャガイモとサツマイモ)、相棒は誤差10グラム以内で粗品をゲット。
詰め合わせを楽しんだ後、川沿いのウッドデッキを散策。

鳥取砂丘前で昼食後、広大な砂丘に改めて感動、数匹のラクダが次々と観光客を乗せ砂の上を楽楽と歩くのを鑑賞。

砂丘から数分の多鯰ヶ池の美しい湖面は透明度が高く水深15mは中国地方最深。
多くの湖沼と同様バスの侵入により生態系が壊されてしまったことは残念です。
池の畔には弁財天が祀られ、昔お種さんが食糧不足の際柿を村人に与えていた。その柿はお種さんが蛇に姿を変え池の中の小島へ採りに行っていた、それを見られたことから身を隠した。そこでお種さんを偲んで社を建て蛇を祀った。

すぐそばの梨園でのもぎ取りを体験。
低く枝を誘引した梨畑を身を低くし、すぐ目の前に袋をかぶせた実が多く垂れ下がっています。教わった通り袋がはじけんばかりに育った梨をもぎ取り、その梨は持ち帰り、梨の試食も楽しみました。
上の写真の梨は頂いた梨(290g)と私がもいだ梨(525g)です。

賀露漁港でのセリ体験で私も参加しハタハタは落とせませんでしたがカニをゲット。
帰って一杯やる楽しみができました。

最後の訪問地は、白兎海岸前の白兎神社。
鳥居前には大国主命とウサギの石像、数十段の石段を上って参拝。病気の神様でもあるそうですので丁寧にお参り。

最後に西粟倉村に立ち寄り山菜弁当を積み込み帰途に。
今回の旅は、二人で野菜4キロ・梨6個・新米1キロ・伊勢海老2匹のおまけ付き、それに蟹1杯を持ち帰り、明日から当分食べる心配はなさそうです。

鳥取の名前の由来。
垂仁天皇の第一皇子である誉津別王は三十歳になっても児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「あれはなにか」と初めて声をあげました。 
天皇は喜び、臣下に「あの鳥を捕えよ」と命じ、天湯河板挙が白鳥を追って出雲いずもの国で捕えました。その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造の姓を賜り、鳥取部を定めました。

大阪にある阪和線の和泉鳥取駅の名は、上記と同じ言われがあり日本書紀によりますと和泉鳥取が最古の記載ということです。

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庚申堂

2018年09月19日 | 四天王寺
昨日、JCOMさんのタブレット教室からの帰り道、四天王寺の南門から庚申街道を南へ300mの庚申堂へ立ち寄ってきました。

庚申堂
総本山四天王寺庚申堂。
日本最初の庚申尊出現の地で、本尊は青面金剛童子(秘仏・60年毎ご開帳で次回は22年後)。
現在の本堂(写真上右)は、千里万博時休憩所であった建物を移築したもの。

大宝元年(701年)正月七日庚申の日、四天王寺の豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し除災無病の霊験を示され、以降1300年、年に6~7回の庚申の日及びその前日(宵庚申)に本尊に祈れば、必ず一願が叶うと尊崇されている。

「病に勝る」「魔も去る」という三猿堂(写真下左)の加持を受ければ、痛い所もたちまちに治るといわれ、広く庶民から信仰を得ている。

庚申の日には本尊に代え青面金剛童子像の掛軸(写真上右)が掛けられている。

「庚申(かのえさる)」は道教の影響を受けた日本人の信仰のひとつで、人間の体内には三尸(さんし)という3匹の虫が住みつき、その人の行動を監視している。そして庚申の夜、眠っている人の体から虫が抜け出して、その人の罪や過ちのいちいちを天帝に告げるという。そこから、庚申の日に眠らず「庚申待ち」という慣わしが生まれたとか。

お参りの後、門前の創業94年の青山納豆店さんで猿の形の庚申最中(写真上中)と甘納豆をお土産にし帰途に。
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アカザ

2018年09月15日 | 植物
先日、岐阜の妙照寺で芭蕉の詠んだ句「やどりせむ あかざの杖に なる日まで」にアカザの杖の言葉があり、その杖が床の間や玄関に立てかけてありました。
また、そのアカザが庭に植えられているのも見てきました。


アカザ(藜)
アカザ科の一年草。インド、中国原産といわれ古い時代に渡来し食用として栽培された。
世界中に広く分布し、比較的乾いた荒れ地等によく見られる。高さ1m以上になりよく分枝する。

茎は、直立して縦にすじがあり秋には木質化し、太く硬く丈夫なため杖の材料にもされ、アカザの杖は最高級とされる。
水戸黄門の杖は、これと言われる。

葉は、菱状卵型で赤紫色または白い粉をつけたように見え、夏から秋にかけて茎の先が枝分かれして、黄緑色の小花を密につけ、平たい円形の果実がつく。
ゆでて食べることができ、同じアカザ科のホウレンソウによく似た味がする。

水戸黄門の杖は、アカザ製であったようですが、TVでは立ち回りに使うため竹製品を使っているそうです。
庭のアカザの背丈は1m位でしたが、これが倍くらいになり且つ杖に使えるくらい太くなるとは、とても信じられませんが・・。
お寺にあった杖の実物を見ますと本当のようです。


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