大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

能登・金沢の旅(その3)

2023年12月31日 | 能登・金沢の旅
能登・金沢の旅の最終日は、自由行動です。
金沢には何度も来ていますが、冬の金沢は初めてです。
予定では、兼六園・金沢城公園・尾山神社・長町武家屋敷・にし茶屋街・寺町を巡り、昼食は近江町市場でと思って出発。

駅前からバスで兼六公園へ。
兼六公園・・17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園。
日本三名園(岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園)の一つで国の特別名勝。

雪の中の徽軫灯籠(ことじとうろう)を期待していきましたが、少し残った雪の中雪吊りを見ることができました。

霞池の周りには、十三代藩主斎が琵琶湖の松の名所唐崎の松の種を植えた唐崎の松の立派な雪吊りや霞池を水源とし池の水面との高低差による自然の水圧で上がっている噴水等を見学して隣接の金沢城公園へ。

金沢城公園では、金沢城の石川門(搦手門、写真上左)・河北門(実質的な正門、写真上右)・菱櫓(物見櫓)・五十間長屋(菱櫓と橋爪門続櫓を繋ぐ倉庫)・橋爪門続櫓(写真下)へ。


橋爪門(写真上)から玉泉院丸庭園(写真下左)と鼠多門橋・鼠門(写真下右)を見学して尾山神社へ。

尾山神社・・加賀藩祖前田利家と正室お松の方を祀る神社(写真下右)。和漢洋のそれぞれの様式を取り入れた三層楼門(写真下左)は国の重文。

空腹を覚え近江町市場へ、ところが土曜日でもありものすごい混雑、どの店も大行列。諦めて金沢駅へ戻ることに。
金沢の名物おでんの昼食を済ませて、長町武家屋敷跡からにし茶屋街・寺町へ。

長町武家屋敷跡の野村家・・天正11年(1583年)前田利家が金沢城に入場時、直臣として従った野村伝兵衛は禄高千石、千二百石と累進し十一代にわたって御馬廻組組頭等各奉行職を歴任、明治4年の廃藩まで続いた由緒深い家柄。

武家制度の解体により野村家も幾たびか住人を変えたが土塀、古木、曲水の一部を残し、その後加賀大聖寺藩の傑商久保彦兵衛が天保14年(1843年)建立の藩主を招いた豪邸の上段の間(写真上)、謁見の間を移築して現在に至り、長町で唯一公開されている武家屋敷跡である。

にし町茶屋街は、いつも訪れるひがし茶屋街に比べて小規模ですが街並みの雰囲気は往時が偲べました。
街並みの入り口にある和菓子店で最中のお土産購入。
写真下右・金沢番傘

寺町では、落とし穴や隠し階段等の仕掛けがあり忍者屋敷として知られる妙立寺と芭蕉ゆかりの寺願念寺に寄ってきました。
奥の細道の途次立ち寄った際詠んだ芭蕉の句「つかもうごけ(塚も動け) 我泣く声は 秋の風」。
寺に興味薄の相棒は、バス停で待っています、と。

金沢駅の戻ってサンダーバード内で食べる駅弁と地酒を購入しました。
18時42分発、車内で一人酒盛り、好天気に恵まれた楽しかった能登・金沢の旅でしたが、つい相棒を引っ張りまわす悪い癖が出てしまい、相棒の慰労になったでしょうか???予定通り大阪着21時23分、たぶんサンダーバードの最後の乗車、よい記念になりました。
本日の歩数計、22428歩。
来年も皆様にとって良い年でありますよう祈っています。
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能登・金沢の旅(その2)

2023年12月31日 | 能登・金沢の旅
能登・金沢の旅二日目、7時50分ホテル発。
訪問先は、白米千枚田・珠洲塩田村・禄剛崎灯台・聖域の岬青の洞窟・能登中島駅郵便車両・のと鉄道乗車・和倉温泉。

白米千枚田・・能登半島の輪島市白米町にある白米千枚田。海に面した約4ヘクタールの斜面に1004枚もの小さな田が連なる棚田で、農林水産省の「つなぐ棚田百選」や文化庁の「国指定文化財名勝」にも指定されている。
今回もよい天気で背景の日本海も穏やかな中、少し残る雪景色も趣があり、日本の原風景でもある棚田を堪能しました。

珠洲塩田村・・江戸時代以前より続く揚げ浜式塩田法が今も続けられいる。
揚げ浜式塩田法とは、海面から桶に汲み運んだ海水を塩田に振り撒き太陽と風で乾燥させ、その塩分を含んだ砂を集めて海水をかけて塩分の濃い「カン水」を作り、それを釜で煮詰めることで柔らかい風味の塩が出来上がるという極めて自然任せの製法。

塩分の濃い海水で湯がいたジャガイモを頂き、大変美味しく頂きました、その後塩田前で塩撒きの実演を見学(ブラタモリで放映)し、解説の名調子につい塩(おにぎり用)とニガリ(ご飯が美味しくなるそうです)を購入し、能登半島の最北端の禄剛崎灯台へ。

禄剛崎灯台・・明治16年設置。狼煙町の名前から「狼煙の灯台」と呼ばれている。歴史的・文化的価値の高さから、Aランクの保存灯台に指定されているほか、「日本の灯台50選」にも選ばれている。通常の灯台は、レンズを回転させることにより光を点滅させるが、この灯台では、レンズを固定し灯火の遮蔽板を回転させることによって点滅させている。
この地は、「日本列島の真ん中」との表示板がありました。灯台は、大変な急こう配の坂を上ったところにあり、相棒はその坂の上まで行きました。灯台は、ずんぐり型でスマートさに欠けますが、本来の目的は十分に果たしています。

聖域の岬・青の洞窟・・日本三大パワースポット(長野県(分杭峠)、山梨県(富士山))の一つ。養老二年(712年)天竺、現在のインドから来た法道と言う仙人が天へ登る為の修業をし、強靭なパワーを習得した洞窟として世にしられ、古来よりこの洞窟は万能の気力と願いが叶うと伝えられてきた。近年では縁結び、金運、学問等多くの願いが叶う洞窟として知られている。

ヘルメットを着用して急な坂道を下って入口へ。内部は、真っ暗で足下が危ないので相棒は途中までで待っていてもらいました。洞窟の奥から海岸に降りられパワーストーンと呼ばれる白い石を拾ってきました。

崖の上からは静かな日本海の美しい風景が広がり、崖の下に貼りつくようなランプの宿(写真上右)が覗けました。

駅に展示中の郵便車両を説明付きで見学し、のと鉄道で和倉温泉駅へ移動。
郵便車両・・現代では郵便物を全国へ配送する方法は車や飛行機などなど多数ありますが、かつては郵便物は鉄道での輸送がメインでした。

鉄道が開業した明治5年から鉄道での郵便輸送は始まり、昭和61年に廃止されるまでの114年間という長きにわたり、郵便物を送り届け続けるという大切な役割を担っていたのがこの鉄道郵便車「オユ10 2565」で、全国に2両しか残っていません。

七尾と穴水をつなぐ「のと鉄道」。全長約33km、8駅からなる鉄道です。七尾湾すぐそばを走るので、車窓からの眺めをゆったりと見ている。この車両は、隣の西岸駅がテレビアニメ{花咲くいろは}に登場したことからラッピング列車として走っています。
この駅の少し北側には、能登演劇堂があり無名塾仲代達矢さんの公演等で知られています。

和倉駅から金沢までバス移動し駅前のホテルへ。ここからは基本的に自由行動。
夕食は、観光案内所で勧められた魚の美味しい店へ。観光案内書前には郷土力士がずらり勢ぞろい、記念にパチリ。

新鮮なお魚やのどぐろの焼き魚で地酒の冷酒の美味しいこと、相棒もちょっぴり一杯?「おいしい」の一言でもう少し一杯?。
金沢でのライトアップを楽しみにしていましたが、雨がぽつり。金沢駅の鼓門で我慢しホテルへ。バタンキューでした。
本日の歩数計、11148歩。




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能登・金沢の旅(その1)

2023年12月30日 | 能登・金沢の旅
12月27~29日、相棒との能登・金沢へのツアーに参加。大阪駅発10時12分のサンダーバードに乗車。
サンダーバードは北陸方面への旅で何度も利用しましたが、北陸新幹線が敦賀駅まで延伸するのに伴い、来年3月15日で敦賀と金沢間の運転を終了し大阪と敦賀間の運転となる、とのニュースが以前流れ最後の乗車にと思ってこのツアーを選びました。

車窓からの雪景色を楽しみながら小松駅12時39分着、バスに乗り換え能登一宮気多大社へ。
新年を迎える準備の整った参道から境内は美しく掃き清められ、ピンと張り詰めた空気を感じながら由緒ある大社であることを感じお参り。
写真下右・神門

気多大社
天平十三年(741年)能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮であった。
前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか祈願、祈祷はもとより本殿(大己貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)の造営をした。
写真下左・拝殿、下右・本殿

加賀藩の保護した社叢(写真下・国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。

巫女さんの説明を聴いたあと参拝。
ホテル着が早めとの今回のツアー通り、志賀町のホテル着16時。
温泉にゆっくり浸かって、今年一年の疲れを癒しました。
夕食時には、美味しい料理で地酒を一杯。いつも通り就寝前にもう一度温泉へ、グッスリ。
本日の歩数計、7119歩。
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関西ウオーク第3回・八尾

2023年12月25日 | 史跡
12月23日、関西ウオーク第3回・八尾に相棒と共に参加。
集合場所は、近鉄久宝寺口から徒歩15分の久宝寺公園を10時30分出発、八尾市の聖徳太子ゆかりの史跡等を巡り約9キロを歩きます。

八尾市内には寺内町が存在し、久宝寺御坊顕証寺への通りには往時の名残を残す旧家が多く残っています。(写真上左・高田家住宅)
寺内町の六ケ所の出入り口には地蔵堂が建てられています。(写真上右・西口地蔵堂)

朝鮮半島からの渡来氏族の大狛連の祖神を祀ったと伝わる許麻神社にお参り後、久宝寺御坊顕証寺へ。

久宝寺御坊顕証寺は、蓮如上人が慈眼寺を拠点に布教活動を行い、明応年間に西証寺を建立した。その後、近江の顕証寺から蓮如6男の蓮淳を住持に迎え寺号を顕証寺と改めた。久宝寺寺内町の中核である。

次の念仏寺は、平野の大念仏寺を総本山とする融通念仏寺の寺院。本堂の十一面観音像は聖徳太子の作と伝えられている。
久宝寺小学校近くの長曾我部盛親物見の松へ。
この松は、大坂夏の陣の八尾・若江合戦において豊臣方の長曾我部盛親は久宝寺に陣取り旧大和川(長瀬川)対岸の徳川方の藤堂高虎と激戦を繰り広げた際、長曾我部盛親はこの地にあった松の巨木に上がって藤堂高虎の動静を探った。現在は松の若木が植えられている。

久宝寺寺内町を出て八尾寺内町に入り豊臣家の家老片桐且元建立の八尾天満宮から八尾御坊大信寺へ。
八尾御坊大信寺は、慶長12年(1607年)教如が創建、同寺を中核として八尾寺内町が形成された。

河内音頭発祥の地として有名な常光寺は、臨済宗の寺院で本尊の地蔵尊は小野篁作と伝えられる。大坂夏の陣で徳川方の藤堂高虎一族は、豊臣方の長宗我部盛親との激戦で討ち死にし壊滅的な大打撃を被ったことから、境内には藤堂家家臣墓所が祀られている。

浄土真宗の親鸞聖人の高弟信願房法心が開基の慈眼寺の前を通り、八尾市役所隣の環山楼(往時の豪商石田善右衛門が設けた私塾)へ。

一路南下、関西線を越え千年の大楠(大阪府天然記念物)で有名な渋川神社へ。

最後の史跡、仏教導入に際し排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が争った、用明天皇2年(587年)の崇仏戦争はこの地が行われ、聖徳太子も参戦し蘇我氏の勝利に終わった。その物部守屋墓(写真上左)と大聖勝軍寺(太子堂・写真上右及び写真下)へ。

大聖勝軍寺は、崇仏戦争の古戦場に建てられ聖徳太子の開基と伝えられる。叡福寺(上の太子)・野中寺(中の太子)・大聖勝軍寺(下の太子)は河内三太子と呼ばれる。

歴史が感じられる史跡の数々と昔は河内木綿で大いに賑わったであろうことを、マンホールのデザインで思いながらの八尾の街ウオーキング、結構距離がありましたが相棒は元気に完歩「バンザイ」。
歩数計は、24096歩。集合場所までの距離が遠かったことと各史跡のほとんどで見学したことが、歩数増加に寄与したようです。
関西ウオーク3回すべて完歩したことを記念して、ライオン君とパチリ。
コメント (2)
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東大寺塔頭・国宝特別公開

2023年12月17日 | 史跡
12月16日は、東大寺塔頭創建に尽力され初代別当の良弁僧正の命日、毎年この日良弁僧正ゆかりの国宝が特別公開されます。
公開されたのは、

①良弁僧正座像(国宝・その像をお祀りする開山堂も国宝)。
12月16日は、東大寺創建に尽力され初代別当の良弁僧正の命日です。
それから246年後の寛仁3年(689年)に初めて御忌法要が営まれ、その際創建されたのが開山堂で安置の僧正像も同時に造立された。

②法華堂(三月堂・国宝)と執金剛神像(国宝、秘仏・同時に本尊の不空検索観音菩薩像ほか八体の仏像・すべて国宝)
法華堂は、天平5年(733年)創建で東大寺で今残っている最古の建物。
執金剛神像は、創建以来今なお鮮やかな色彩を見せ、金剛杵を振り上げ仏敵より人々を守ろうとされる。

③重源上人座像(国宝・俊乗堂内には阿弥陀如来立像と愛染明王坐像・何れも重文)
重源上人は、東大寺炎上の後、造東大寺大勧進として鎌倉期の東大寺復興に大きな足跡を残した。座像は、快慶作(鎌倉時代)と伝えられる。
重源上人によって建てられた浄土堂(焼失)のあった場所に、元禄10年(1567年)に重源上人の偉大な功績をたたえ、菩提を弔うためお堂を建てそこに重源上人像を移した。

仏像等の写真は、インターネットの画像。
相棒を誘っての国宝見物三昧、東大寺大仏殿右後方の法華堂周辺を散策してきました。
年に一度の公開ですので、表面の極彩色を間近に観ることができ大変良い機会でした。
歩数計は、13793歩、相棒の歩行もだいぶ戻ってきました。


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