大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

夏目漱石ゆかりの地巡り

2018年12月28日 | 松山の旅
12月25日から3日間、松山道後温泉へ行って来ました。
目的は、相棒の1年間の疲れを温泉で癒すことと私は漱石ゆかりの地と内子の町を巡ること。

漱石と松山の関わりは、明治25年漱石が東京大学予備門の学生の時子規を訪ねたことから始まります。
明治28年松山中学英語教師として赴任、その際逗留したのが城戸屋旅館で小説坊ちゃんには山城屋のモデルで登場。松山中学校へ来たのは渡航費用捻出のためであったそうです。
その後、松山での住まいは愛松亭・愚陀仏庵へと移った。

城戸屋旅館・・当時松山第一級の旅館。漱石が明治25年子規を訪ねた際にも投宿。また秋山真之が軍艦筑紫で呉に寄港した際愚陀仏庵にいる子規を見舞うため宿泊した。所有者は何代か変わり途中までは 漱石の最後に泊まった部屋を坊ちゃんの間として大切に保存していたが空襲で全焼、その後も再建され松山坊ちゃんの会が設立され坊ちゃんを愛する人たちの憩いの場になっていた。現在は取り壊されマンションになっている。

愛松亭・・坂の上の雲ミュージアムから萬翠荘への途中にあった小料理屋。漱石は城山にある愛松亭からの眺めが気に入っていたそうで、親友の正岡子規に「眺望絶佳の別天地」だと自慢したほどです。現在は、その場所に漱石珈琲店愛松亭となっています。

愚陀仏庵・・3番目の住まいを自らの号愚陀仏をとって愚陀仏庵と名付けた。子規は日清戦争の従軍記者として従軍、帰国の途次喀血須磨で一時療養、小康を得た身を故郷松山の地で休めることとなり漱石の勧めでこの愚陀仏庵に身を寄せた(二階家に住んでいた漱石が1階を子規に譲った)。その際俳句結社松風会の門下生を指導したり俳論俳諧大要をまとめた。二人にゆかりのこの建物は戦災で焼失、萬翠荘裏に再建したががけ崩れに遭い崩壊。子規記念博物館に子規が住んでいた1階が、また20分の一の全景模型が復元されている。

松山中学赴任中の訪問の地は、道後温泉、新栄座もあります。

松山中学校・・藩校・明教館の流れを汲み、旧制松山中学以来の伝統を持つ県内最古の高等学校、現松山東高等学校。尋常中学校時代に夏目漱石が第五高等学校へ赴任するまで1年間教鞭をとっており、この体験を元にして小説坊っちゃんが描かれた。県庁と市役所の間の跡地には碑が残されている。

道後温泉・・明治28年赴任後友人にあてた手紙に「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上がり茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるというような始末、ずいぶん結構に御座候」と書き送っています。
私達も三階に上って坊ちゃんが泳いだ温泉に入り坊ちゃん団子を味わい、漱石の気分になってきました。
漱石が道後温泉で詠んだ句「霞む日や 巡礼親子 二人なり」

新栄座・・明治20年開館昭和32年閉館。愚陀仏庵に子規と同居している間、同行した吟行の帰途狂言見物に訪れている。その場所は三越横の大街道に面したビルになっている。

松山滞在は、28年4月から29年4月に熊本へ行く1年間でしたが、見合い、婚約や小説坊ちゃんの題材にとなる数々の体験をしている。また子規との交流で俳句に親しみ、文学論を交わしたことが小説家へと変身する発端となったようです。
コメント (2)
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