大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

アサザ

2017年05月26日 | 植物
先日、浜寺バラ公園内の池では睡蓮が咲きだし、夏到来を思わせます。
その池の隣の小さな池に、黄色の花が一面に咲いていて、花の横では、アゲハチョウが吸水に来ていました。
水面に浮かぶ葉は睡蓮に似て、黄色の花はキューリの花のようです、帰って調べてみましたら「アサザ」であることが判明。

アサザ(浅沙・阿佐佐)
ミツガシワ科、本州や九州に自生する浮遊性植物で多年草。

水路や小河川、池に生育する。浮葉植物であることから、波浪が高い湖沼には通常生息しない。
池や水路の護岸工事や水質汚濁などにより、各地で個体群が消滅、縮小している。

種子を作るために必要な異なる2つの花型が生育するのは霞ヶ浦だけとなっていて、日本にわずか61個体しか残存していないことがわかったとされ、保存、復元に努めている。
環境省のレッドデータブックでは、準絶滅危惧に指定されている。

花びらは5枚あるようだが、花の根元はつながっている合弁花。
花(径3~5cm位)は1日花で午前中に開花し夕方閉じる。開花期間は5月頃から10月頃までと長く、 開花期間には多くの花が咲く。

若葉は食用にされハナジュンサイの名もある、葉(径5~10cm)は水鳥の餌になっている。



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卯の花(住吉大社)・浜寺バラ公園

2017年05月21日 | 植物
一昨夜、相棒から卯の花を見に行きたい、とのリクエスト。
少し前に、住吉大社に卯の花苑のあることを話していましたので、どんな花か興味があったようです。

市バスを利用して住吉大社東門から境内へ、卯の花苑方向へ進みますと、なにか匂ってきます。
多分卯の花の香り?と思いながら「卯の葉神事」の際舞楽が行われる石舞台(日本三大舞台の一つ)の横を通って境内の南東角の卯の花苑へ。

この卯の花苑は、例年卯の葉神事の行われる5月に約1か月公開されます。
苑内には、卯の花が13品種・500株植えられていて、築山になっている苑内の小径に満開の卯の花が覆いかぶさっています。

住吉大社と卯の花
住吉大社がこの地の鎮座されたのは、神功皇后摂政11年(211年)卯の歳・卯の月・卯の日と伝えられている。
毎年5月最初の卯の日に行われる「卯の葉神事」は、住吉神に卯の葉の玉串を捧げ神威の更新を祈っている。

卯の花は正式にはウツギと呼ばれ、別名が卯の花とされている。
ウツギの仲間のバイカウツギ(写真下左)は、一般的なウツギの花と違って花びらが大きく真っ白でとても美しい花でした。
また、私はウツギというとハコネウツギ(写真下右)を連想し、卯の花とは違う種類だと思っていました。

ウツギ(空木)
ユキノシタ科、北海道から九州まで広く分布。

樹高は1~3mの落葉低木。花期は5月頃で枝先に円錐花序をつけ、1cm位の多くの白い花を咲かせる。普通、花弁は5枚で細長いが八重咲きなどもある。
種類は50種ほどと多く、花色も白やピンク・紫もあり多彩です。

茎が中空のため空木(うつぎ)と呼ばれる。
材質は硬く木釘や楊枝などに用いられ、葉や実を乾燥させたものには利尿効果がある。
別名はウノハナで、卯月(陰暦4月)に花が咲くということからつけられた名であり、オカラのことを卯の花と呼ぶのは散り積もった白いふわふわした花とオカラが似ていることからのようです。

昔、卯の花苑の近くの浅沢社には清水が湧きカキツバタの名所であったそうです。
昭和に入って水も枯れカキツバタも菖蒲に取って代わったのを地元住民の努力でカキツバタに植え替えられています。

見学後参拝、反り橋(太鼓橋)を渡って早めの昼食、阪堺電車で浜寺公園へ。

天気予報通り気温は上がり、強い陽射しの中バラ園へ。
手前の噴水が、勢いよく涼しげに吹き上げていますが、暑いです。

このバラ園の特色は、日本の自生種ノイバラ・テリハノイバラ・ハマナス等の原種を集めると共にそれらの育った環境も復元栽培している事です。
同時に、見たこともないような色とりどりで大きなバラには本当に驚かされます。
池には睡蓮も咲いていて少し涼がとれました。

卯の花とバラを鑑賞して思い出深い浜寺を後に、ご機嫌の相棒と共にチンチン電車で帰途に。
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嵯峨野散策

2017年05月17日 | 高齢者大学
昨日、高大歴考同窓会の例会で嵯峨野方面へ。
阪急梅田駅9時集合、例の如く定刻前に全員(男女各5人)集合し予定より早い9時発の特急で出発。
桂で乗り換え嵐山駅からバスで愛宕寺前下車すぐの愛宕念仏寺へ。
降りますと少しヒヤッとします、京の避暑地としてかつて栄えたそうです。

立派な仁王門に迎えられ境内へ。
すぐに急な石段と多くの羅漢像が目に飛び込んできます。

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
奈良時代、聖武天皇の娘称徳天皇によって山城国愛宕(おたぎ)郡(現在の東山松原通)に寺を建立、愛宕寺と呼ばれる。
鴨川の洪水で全て流され廃寺となるが、平安時代天台宗の僧千観内供(念仏上人)が復興し愛宕念仏寺と呼ばれる。

大正時代に入り堂宇保存のため今の地に移築され、嵯峨の愛宕念仏寺として再興されたが、戦時中無住寺となり昭和25年の台風で甚大な被害を受け廃寺となる。
昭和30年仏像彫刻家西村高朝が住職を拝命し清水寺貫主大西良慶の援助を得て復興。
その際、復興に賛同した人々の手により彫られた1200体の石造の羅漢が境内に並び、訪れる人々の心を和ませ癒しの寺として親しまれ、また火除地蔵菩薩や厄除千手観音が祀られていることから火の用心や厄除けに霊験あらたかとして信心されている。

次の訪問地化野念仏寺へ下りますと左右に萱葺の民家が点在、鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区です。
愛宕山頂に近い愛宕神社への参詣道にあたり、その一の鳥居付近に集落が形成され宿場町として栄えた。

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
約1200年前、弘法大師が如来寺を開創され、野ざらしであった遺骸を埋葬された。
その後法然上人の常念仏道場となり現在に至る。

境内に祀る八千体を超える石仏・石塔は、昔風葬に地であったこの辺り一帯に葬られた人々のお墓であったが、何百年を経て無縁仏となり化野の山野に散乱埋没していた石仏・石塔を明治中期地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。

8月23・24日に行われる千日供養は地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり多くの参詣がある。
短い距離ですが誰も歩いていないひっそりした竹林の小径も風情がありました。

近くで昼食を摂り嵐山までゆっくり下山。

途中、平清盛の愛妾であった祇王が清盛の心変わりにより都を去り、母と妹と共に出家・入寺した悲恋の尼寺として知られている祇王寺と
平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斎藤時頼が建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛の美しさ、舞いの見事さに一目惚れする、しかし時頼の父に反対されいったんは思いとどまるが、これは仏道への手引きである、として出家した往生院(現在の滝口寺)へ立ち寄り、また通行人は全て外国人ではないかと思われる竹林の道を通って嵐山へ。

皆さん1万歩以上のウオーキングでお疲れでしたが、ソフトクリームで息を吹き返し嵐山駅から帰途に。
私にとっては、化野念仏寺へは行きたかったところで天候にも恵まれ、青紅葉の中とても爽やかで楽しい旅でした。
幹事役の第1班の皆様有難うございました。
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漫才鑑賞と中之島バラ園

2017年05月14日 | 催事
道頓堀角座の入場券が当選し、JCOMさんから送付されましたので相棒と行って来ました。
漫才鑑賞は初めての体験で会場の道頓堀角座も初訪問です。

戎橋筋から東へ数十m、相変わらず外国人が幅を利かせている道頓堀筋から少し奥まった所に角座はあります。
表にいるスタッフから入れ替え無しです、と言われ観覧客6割がたの会場へ。
本日の出演者の内私達の知っているのは、トリを務める海原はるか・かなたさんだけでした。
他の出演者は、シンデレラエキスプレス、大森くみこ(活動写真弁士)、チョップリン、チキチキジョニー、ひぐちん、よふかしイエローさん達でした。

皆さん得意のネタを演じられ、久しぶりに漫才で笑いました。
鑑賞後、天気も回復して来ましたので中之島バラ園へ。

淀屋橋から地下通路を利用、結果的にバラ園まで行けました、この地下通路がこんなに長いとは知りませんでした。
難波橋から中之島バラ園へ。

午前中の雨で出足は悪いのでは、との思いを覆し多くのバラ愛好者が訪れており、彩り鮮やかで豪華な花々を愛でたりベンチで一休みしたりと思い思い楽しんでおられます。
相棒は美しいバラに囲まれご機嫌、またスマホで写真を撮るのに夢中です。

明治24年に大阪市最初の公園として開園した中之島公園のバラ園は、2009年にリニューアルされ現在310品種・3700株が現在5分咲きで開花中です。
都心の真ん中でこんなに静かでゆったりと過ごせる公園として、大阪市民はもとより多くの方々から親しまれています。
今後バラも成長を続け、益々皆さんの憩いの場所・バラの名所となることでしょう。

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三鈷の松

2017年05月10日 | 植物
先日訪問した京都城南宮の庭園で「三鈷の松」(葉が三本あり黒松の一種)に出会いました。
数年前、高野山伽藍の境内、御影堂の前に植えられている三鈷の松を見かけて以来です。

高野山での伝説
延暦23年5月に入唐した空海が、その2年後帰朝する際明州の浜で、自分の学んだ密教を教え広める根本道場として伽藍を建立しようと思う。
「願わくば伽藍建立に適した地を示したまえ」という誓願を立てて、空に向けて密教法具の三鈷杵を投げられますと、それは紫雲に包まれ東の空へ飛び去りました。
その三鈷杵は、密教正嫡の阿闍梨の位についた空海に引き継がれた八種の法具の内の一つで、現在高野山の至宝として厳重に保管されているそうです。

帰朝の後、伽藍建立の地を求めて紀伊の国、紀の川上流の山へ登りますと、そこで一人の女性と出会いました。
「あなたがお探しの三鈷杵は、この先の松の枝に掛かっております。私は、この山の主の丹生都比売といいます。」
確かに松の枝に明州の浜から投げられた三鈷杵が光を放ちながら掛かっており、空海はこの地に伽藍を建立する事となりました。
というわけで、伽藍の境内、御影堂の前には三鈷の松が立っております。幾度もの火災に焼かれ今ある松は六代目の実生です。
いまでも、三鈷の松の葉は福が来るといってお守りとするため拾っては持ち帰る方々が多いのです。
というのが、高野山での「三鈷の松」伝説です。

司馬遼太郎の「空海の風景」にも記述があります。
「あらたに密教正嫡の阿闍梨の位についた空海が、正嫡の阿闍梨として持たねばならぬ付属品がある。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものであるといっていい。八種あった。この八種はインド僧金剛智が南インドから唐に渡ってくるとき請来したもので、それが相続の印可として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられた。恵果から空海に伝えられる場合、海を渡ってしまうため、唐にはもはや密教正嫡を証明するこの八種のしるしは存在しなくなる。このことを思うと、恵果が空海に相続させたという事柄そのものが尋常でないことがあらためて知らしめられる」

コメント (6)
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