大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

一乗院

2022年08月30日 | 四天王寺
先日、四天王寺へお参りをした際五重塔の東側に一乗院という建物があります。

一乗院
かつてこの地に祀られていた伝教大師像は、第二次世界大戦末期の金属類回収令により大梵鐘等とともに供出された。
令和4年の聖徳太子1400年御聖忌に先立ち、令和3年に迎える伝教大師1200年大縁起を比叡山にて迎える吉縁として、新たに伝教大師像を奉安する一乗院が2020年に建立され、除幕式や落慶法要が行われた。

我が家の宗旨である天台宗の祖である伝教大師を祀るお堂でもあり丁寧にお参りをしました。

堂正面に書かれた文字と大意
海内救縁力 帰心聖徳宮   海内に縁力を求め 心を聖徳の宮に帰す
我今弘妙法 師教令無窮   我今妙法を弘め 師教をして無窮ならしめん
両樹随春別 三奔応節同   両樹春に随って別れ 三奔節に応じて同じ
願唯円教使 加護助興隆   願くは唯だ円教をして 加護し興隆を助けしめ給え
                         (伝述一心戒文巻中)

日本で法縁を得て心を太子に捧げ、妙法蓮華経を弘め太子の教えを永遠のものとしようと思っています。春に大樹が成長して枝分かれするように、仏教は大乗・小乗と分かれ、あるいは比叡山・高野山、天台・真言両宗に分かれています。しかし、もろもろの草が雨のうるおいを同じく受けるように、仏教においても教法や信奉する教義がちがっても、また理解の度合いがちがっても、太子が万善同帰と言われるように一条の法界に達します。どうか私が弘めようとしている円教(法華一乗)を加護し興隆をお守り下さい。

以上のように、伝教大師は、太子のご精神たる法華一乗を日本に伝法することを誓われた。
 瀧藤尊教著 『聖徳太子の信仰と思想』 
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なんばパークスガーデン

2022年08月14日 | 風景
先日、映画『峠』鑑賞後、久しぶりになんばパークスガーデンに寄ってきました。

なんばパークスガーデンは、南海ホークスの本拠地球場として使用され1998年に解体された跡地を再開発し2003年に第一期、2007年に第二期が開業したナンバパークスのビルの外壁を斜面化し緑の空間として利用された都市型庭園。
・平成24年度 「都市のオアシス」に認定。
・平成26年度 アメリカCNN局の「世界で最も美しい空中庭園トップ10」に選定。

日差しの強い中でしたが、緑一杯の中を散歩すれば気持ちよいだろう、との誘惑のほうが強く涼しいビルの中から相棒と共に出ました。
木陰のベンチで一休み、近くの数本のミストシャワーや小さな滝・小川が涼感を演出していました。

二階まで下る途中、真っ白なユリと真夏がよく似合うカンナが咲いていました。
ナンバパークス入り口の花馬車には、赤と黄色のハイビスカスが元気に咲き、ここでも真夏を感じさせてくれました。
コロナ前には、この庭園でホタルの飛び交うのを楽しんだことを思い出しながら帰途に。


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『峠・最後のサムライ』

2022年08月11日 | 司馬遼太郎記念館
昨日は久しぶりの映画観賞、相棒と共に『峠・最後のサムライ』を見に行ってきました。

ナンバパークスシネマでの上映は、9時40分開始。
映画は、徳川慶喜の大政奉還によって終わりを迎えた徳川幕府、諸藩は旧幕府側の東軍と明治新政府側の西軍に二分され、やがて戊辰戦争が勃発する。
話し合いによる和平の道を模索しスイスのような武装中立を目指す継之助だったが長岡藩も否応なく戦渦に巻き込まれていく。

河井継之助訳の役所広司さんが正義と信念に生きる継之助を人間味豊かに力強く演じられ、共演の松たか子(妻すが役)・仲代達矢(藩主牧野役)・香川京子(母役)・榎木孝明(友人役)たちの脇役陣も豪華で、「役人は民のしもべである」を自負し庶民の暮らしを守るため戦争を回避すべく奔走した継之助が見事に演じられ見ごたえがありました。

司馬遼太郎氏は、この作品で侍とは何かを考えてみて、その典型を長岡藩の非門閥家老河井継之助に求めたことは、書き終わってからも間違っていなかったとひそかに自負している、と作品『峠』のあとがきで述べています。

この作品で一躍有名になりました継之助は戦いで戦死しましたが、あとに残った妻すがのその後が気になり、帰って調べてみました。
すがは、長岡に戻りましたが藩論を主戦に導いた継之助が全責任を負わされ家族もまた怨嗟の的となった。河井家の墓は壊され、すがとその家族は外出もままならなかった中、舅は失意のうちに死んだ。
遺族の窮状を憐れんだ旧主の牧野忠恭は、藩士・森源三(札幌農学校二代目校長)に100石を与えて、すがたちの扶養を命じ、ようやく露命をつなぐことはできたが、明治5年、石もて故郷を追われるように、すがは森に従って東京へ出た。
さらに転職した森について北海道に居を移した。
激変する境遇に耐えながら、すがは密かに河井家の再興を願い、明治17年に願いは叶えられた。
実子がなかったので、森の子の茂樹を養子に迎えている。
明治22年には、長い間、苦楽をともにした姑が他界し、5年後の明治27年、すがも北海道江別で没した。
戊辰戦争で長岡藩を率いた河井継之助の妻として生き抜いた半生は想像以上の苦労をともなったようですが、継之助に尽くした生涯は武士の妻らしく終えたのでは、と思いました。







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万燈院(紙衣堂)と紙衣堂再建の碑

2022年08月03日 | 四天王寺
昨日、四天王寺へ墓参、久しぶりに母もお参りしていたであろう万燈院(紙衣堂)にお参りしてきました。

万燈院(紙衣堂)
おおさか十三仏霊場の第4番札所。
紙衣仏を祀っているので紙衣堂とも呼ばれる。

毎年10月10日に執り行われる紙衣法要では紙衣仏が着ていた紙衣を背中に当てご利益を得る。
これを三年続けると病気になった時でも、また臨終の時でも不浄の世話を人にかけないとされており、そのため毎年10月10日には多くの信者が訪れる。

紙衣堂の右横に黒っぽい石碑が建っており、表面には万燈院再建の寄付をした人の寄付額と名前の記載がなされており、裏面には「維持大正10年 聖徳皇太子一千三百年聖忌紀念再建」の記載があり、大正10年の聖徳太子1300年御聖忌を紀念して万燈院(紙衣堂)が再建された際の寄付者を顕彰する石碑のようです。

母は、週3回の透析を受けていて相棒が見舞いに行っていた時心臓の具合が悪くなり救急車で病院に運ばれ手術中に心臓が止まり、子供に世話をかけることなく亡くなりましたが、紙衣堂への信心の甲斐あって母は95歳で死ぬまでしっかりしていました。

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