大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

奈良県立美術館「清水公照・平山郁夫・清水健吉展」

2017年02月27日 | 催事
昨日、菜の花の香りがむせ返る司馬遼太郎記念館での活動後、相棒と待ち合わせて奈良県立美術館へ。

駅前で昼食後、日曜日でもあり多くの観光客で賑わう公園内を抜けて、鎌倉時代に建築された丸窓亭周辺の丸窓(片岡)梅園へ。
大阪城の梅園を見慣れている者にとっては、少しさびしい梅園ですが白梅は満開、紅梅はつぼみが膨らみかけていました。

奈良県立美術館では、「祈りの美」と題して清水公照・平山郁夫・杉本健吉の作品を展示しています。
圧倒的に、東大寺別当を務められた清水公照氏の作品が多く仏画やお水取り等の東大寺の行事の絵日記と泥仏と称する陶芸作品が展示。
氏の作品は、多くの機会に紹介されていたことから、私達にも馴染みがあり親しみのわく作品で、描いたりこねたりするうちに作者自身の表情になって来るとの解説にも納得。

平山郁夫氏の作品は、シルクロードをテーマとした作品と奈良の風物を題材とした作品10数点を展示。

杉本健吉氏は、名古屋の出身ですが1949年東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらって以来奈良の風物を描いた洋画家です。
今回の作品も奈良の風物を描いた作品を100点程展示されていて、私達にも目に触れたことのある風景等が多くありました。

ポスターにもなっていた、清水公照氏の「紅富士」の賛には「和風被八方」と書かれていて、「のどかな風が国の八方へ吹きあまねく及ぶ」の意で天下泰平の世を祝う晴れやかな気分に満ちた作品であり、手近に筆がなければバケツの墨を雑巾で描いたとの解説も添えられていました。

65歳以上は無料ですので、会期の3月15日までに足をお運びください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

センダンの実

2017年02月24日 | 植物
先日、四天王寺へお参りの際北の門を入った所で珍しい形の木の実の落ちているのを見つけました。
丁度その横には、センダン(栴檀)の木がありますので、ひょっとしてセンダンの実?

帰って調べてみましたら、やはりセンダンの実でした。
てっきり丸く黒い実だと思い込んでいましたので、こんな形をしていたとは意外でした。

栴檀は、10~15mになる落葉高木。
5・6月頃に薄紫(オウチ色)の五弁の花を多数円錐状につけ初夏にふさわしい涼しげな花です。
オウチ色・・・センダンの古名アフチからこの花色のこと。
果実は長径1.5~2センチ程の楕円形の核果で、10~12月頃に黄褐色に熟す。秋が深まり落葉してもしばらくは梢に果実が残る。
果実は果肉が少なく核が大きい。たまにヒヨドリなどが食べに訪れる。しかしサポニンを多く含むため、人、犬が食べると中毒を起こし摂取量が多いと死に至るそうです。

「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は、白檀のことです。

左写真の、真ん中の実を剥いてみたのが右側に写真です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

てんのじ寄席 2017冬の陣

2017年02月16日 | 伝統芸能
2月14日「てんのじ寄席 2017冬の陣」・会場は四天王寺五智光院。

出演者は、
桂文五郎  二人癖    (入門平成25年)
笑福亭喬介 饅頭怖い   (同平成17年)
桂ひろば  立ち切れ線香 (同平成12年)

前座役の桂文五郎さん、重文の建物での落語に緊張しますと言いながら「二人癖」を演じ、「呑める」と「つまらない」という癖を言う度に罰金を払うことを提案。言いだしっぺがご隠居にネタを教わって相手に仕掛けますが、相手の方が上手でやり込められる、そのやり取りが面白く笑えました。

中の笑福亭喬介さんの「饅頭怖い」、暇を持て余している数人が夫々怖いものを言っていく、その中に一人が怖いものなんかない、とうそぶくが何度も念を押すうちとうとう饅頭が怖いと明かし、饅頭と言っただけでふるいが来る、といって家へ帰ってしまう。残ったものがそのものをもっと怖がらせようと皆で饅頭を買ってそのものの家へ饅頭を投げ込んだところ、家の中では饅頭を食べる音がして皆は一杯かつがれたことに気がつき、もう一度本当に怖いものは何か尋ねたところ、お茶が欲しい、との落ちに大笑い。


トリを務めた本落語会のホスト、桂ひろばさんは「立ち切れ線香」。
芸者遊びの花代を時間で換算するために線香を利用していたとの説明をした後、とある商家の真面目な若旦那が友達に誘われお茶屋遊びへ。
置屋の娘の芸者に一目惚れ、たちまち入れあげ店の金にも手を付ける。親族会議の結果番頭の提案する乞食の格好をさせて追い出し、町を歩かせれば金の有難さが判るのでは、というと若旦那は、その恰好だけは堪忍他のことなら何でもすると。ということで二人を会わせないようにするため100日間蔵に閉じ込める。芸者からは毎日のように手紙が来るが80日目、ついに手紙が来なくなる。
100日が過ぎ、最後の手紙を見せられ、「即刻来て頂けなければ死ぬ・・・」を読むなり置屋へ駆けつける。女将は若旦那から送られた三味線を弾いて亡くなった、との不実をなじるが事情を知り許す。丁度この日が三七日であり仏壇の前へ招く。仏前で拝んでいると三味線の音が聞こえてきたが、突然止む。そこで落ち「仏壇の線香が立ち切れです」。お後がよろしいようで。

いつもながら落語の上手さ加減は、経験がモノをいうようです。
今回の三人も明らかに経験の差が噺振りに表れていたように感じ、相棒共々楽しみました。
特に桂ひろばさんの「立ち切れ線香」久し振りに聴きましたが、悲しい話ですが湿っぽくならず大変良かったです。

桂ひろばさんの見送りを受けて帰途に。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉・長崎・博多の旅(その3)

2017年02月14日 | 旅行
2月12日、今朝も美味しい朝食を頂き博多へ。
昨日、一昨日は、時折雪がちらついたり陽射しが射したりのややこしい天気でしたが、本日は晴れるようです。
途中のスペースワールド駅に世界文化遺産の八幡製鉄があるとのことですので下車して見学しようとしたのですが、駅員さんから「非公開です」と言われ断念。(市民から早く公開してほしいとの要望が多いそうです)

博多駅ではコインロッカーがどこも満杯で空きがありません。
夕食は、屋台でとの相棒の希望もありますので、地下鉄1日券で天神へ移動して、やっと一つ空いていました。

まず、地下鉄西新駅からバスで福岡タワーへ。
福岡タワーは高さ234m、日本一の海浜タワーだそうです。
123mの展望室からの眺望は素晴らしく、特に海側は正面に金印の発見された志賀島が見えました。

下りのエレベーターの案内嬢との会話で「昼食は福岡市博物館がお勧めです」と。

徒歩数分の福岡市博物館へ。
お目当ての金印は、真っ暗な部屋のガラスケースに厳重に納められていて、金印の上部と下部の文字部分との両方に照明が当てられていて明るく見ることができるように展示されています。
国宝の金印は、2センチ四方位の小さなものでしたが。ずっしりと重いものでした。(大きさ重さとも同一の複製品が別に置いてありました)

学芸員に元寇に備えて築かれた防塁の位置を確認。
帰り道、元寇神社横の防塁を見学。
高さ2m程の防塁は埋まっていたようですが、掘り出された当時の石垣を見ることができました。

地下鉄で大濠公園へ。
一周2キロの大きな池があり、池の中にも道が付けられています。
私は左回り、相棒は右回りに歩き始め池の中の道で合流、私は一周しましたが相棒は1/4位歩いたでしょうか。
池には鴨たちが多く、日曜日ということもあって家族連れ等が散歩やベンチで休息を取ったりして賑わっています。

祇園駅から櫛田神社へ。
櫛田神社は、757年孝謙天皇の御託宣によって鎭祭され博多の総氏神様としては最古。
その後度々の兵火により荒廃せるを1587年秀吉が博多復興にあたり現在の社殿の建立寄進がなされた。
境内には樹齢1000年以上と言われるイチョウ(県指定天然記念物)の大木が聳えています。
博多どんたく・博多祇園山笠・博多おくんちは、櫛田神社を中心に行われている。

境内の高さ10数mの飾り山笠を見学後、歴史館で博多祇園山笠のビデオを鑑賞し勇壮な追い山笠の迫力の一端に触れることができました。

その後、近くの博多町家ふるさと館・博多伝統工芸館を見学。
相棒は博多織の実演を体験して天神駅へ。

昭和通りの屋台は、サラリーマン相手の店が多く比較的安全、でも価格表の無い屋台はダメとの地元の人のアドバイスを守って屋台を探しますが、時間が早くどの屋台も準備中。
地下街に入ってビールを飲みながら時間待ち。

組み立ての終わった屋台が数軒、その中に客の坐っている屋台がありましたので私達も中へ。
先客は若いご夫婦と4年生と6年生の娘さんで大阪にも研修で行ったことがあるとのこと。
ご主人から30分ほど待って、と。了解。
焼酎におでんで幕開け。大変気の良いご主人に他の来客も加えて大いに盛り上がり本当に楽しい一時でした。
〆のラーメンを頂き、皆さんと「たかちゃん」での再会を期して博多駅へ。

20時発ののぞみに乗車、大阪へ。

雪も積もることはなく最後には晴天にも恵まれ、今回の目的「松本清張記念館」「長崎ランタン」「金印」を巡る旅も終わりました。
私にとっては充実した旅行でしたが相棒には少し強行軍であったようです。
でもランタンの美しかった事や屋台も良い思い出になった事でしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉・長崎・博多の旅(その2)

2017年02月13日 | 旅行
2月11日・グッスリの睡眠、今朝も朝食が美味しい。
長崎駅前へ送迎バス、手荷物をコインロッカーへ。

市電松山町下車すぐの原爆爆心地へ。
黒御影の石柱が建てられた爆心地の上空500mでさく裂した原爆での被害の大きさを考えると、絶対に繰り返してはいけない行為であることを再確認します。

二人とも高校の卒業旅行で訪れた平和公園での、世界恒久平和を願う平和の像(北村西望作)から浦上天主堂へ。

浦上は、1567年キリスト教伝来以降信者が多くなり、特にイエズス会領となった1584年から3年間は長崎でのキリスト教の一つの中心となった。
キリスト教禁止により信徒は潜伏して信仰、弾圧により多くの信徒は配流された。1873年浦上に戻ることができた1900人を中心に教会建設が計画。
起工より30年後の1925年石と煉瓦造りのロマネスク様式で東洋一の大聖堂完成したが、1945年の原爆で爆心地から500mの教会は全壊。
1959年鉄筋コンクリートで近代様式とロマネスク様式を混合した新天主堂が完成。
教皇ヨハネ・パウロ二世の来日を機に被爆前の天主堂への復元を実施し外壁を煉瓦タイルに改装、1980年現天主堂完成。

駅への途中の原爆資料館を見学。
実物大の原爆とそれによる被害のすさまじさを示す数々の展示品を見学、二度と繰り返さないことを肝に銘じます。

中華街へ戻って、豚まん・チャーシュウマン・胡麻団子での昼食を終え諏訪神社へ。

長崎は、戦国時代イエズス会の教会領になり、諏訪・住吉・森崎三社は焼かれたり、壊されたりしてなくなっていたのを1625年初代宮司となる青木賢清により再興し長崎の産土神としたのが諏訪神社の始まりです。
さらに、1648年徳川幕府より朱印地を得て鎮西無比の荘厳な社殿が造営された。
当神社の大祭、長崎くんちは絢爛豪華で異国情緒のある祭りとして国の重要無形民族文化財に指定されている。

本殿まで193段の階段を上り、途中立派な石の鳥居五つを潜って参拝後眼鏡橋へ。

眼鏡橋は、1634年架けられた日本最古の石造りアーチ橋。
中島川に架かる石橋は、この眼鏡橋を含めて12の石橋があり、川の両側に残る町家と共に独特の趣が感じられる地域となっています。
この周辺にもランタン祭りの飾り付けがされており、多くの観光客が訪れていました。

その後、出島へ。

長い岬の先端にあった事から長崎と呼ばれるようになった、その岬の先端に1636年徳川幕府の命により長崎の25人の有力な町人が出資して出島を築造し、町で暮らしていたポルトガル人を収容し貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成。
その翌年島原、天草の一騎が起こり1639年ポルトガル船の来航は禁止。
その後、平戸で貿易していたオランダの商館が出島に移されて日蘭交流は続き、ヨーロッパとの唯一の貿易地、蘭学を初め日本の近代化に必要な発信基地として出島は重要な役割を果たした。

その後グラバーやリンガーたちの活躍でグラバー園周辺の外国人居留地へ貿易の中心が移り、出島の歴史的役割は終え周囲の埋め立て等により次第に都市の中に埋没していき扇型の地形も失われた。
1922年和蘭商館跡として国指定史跡に指定され、戦後復元計画が動きだし民間の所有であった土地を長崎市が買い上げ50年の歳月をかけて16棟の建物の復元に至っており、今後は扇型の出島の周囲を堀で囲み昔のように再現される計画のようです。

長崎駅前に戻って、日本二十六聖人殉教の地へ。
1597年秀吉のキリシタン禁令によって京都で捕えられた外人6名と日本人20名が長崎へ護送され、この地で処刑された。
ローマ法王は、この26名を殉教者として聖人に列し日本二十六聖人と称した。
記念館は、5時を過ぎていましたので閉まっていました。

長崎発19時のバスで小倉へ移動前に夕食、長崎の美味しい魚のお寿司で満腹。
端島(軍艦島)行きの船が欠航だったのは残念でしたが、その分市電の一日券を利用して市内の観光地を巡ることが出来ましたのでラッキーでした。

小倉には10時過ぎに到着、二人ともバタンキュー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする