大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

鴻池水みらいセンター

2018年11月30日 | 催事
11月28日、鴻池水みらいセンターでの府政学習会に参加。
テーマは、下水道の働きや浸水対策について。

JR鴻池新田駅から徒歩10分。
参加者約50名にスライドでの事前学習を受けた後見学へ。

昭和47年から使用されているこのセンターの担当地域は、北は淀川・南は大和川、東は生駒山手前・西は上町台地で、淀川、大和川の水面より下にある地域が多く昔から浸水被害の多い地域でした。
そのため下水道増補幹線(最大直径7.5m・写真上左は6.5m)や流域貯水池(地下での貯水タンク)、遊水池(公園や学校の地上貯水池)が急ぎ設置され、現在では昔のような浸水は少なくなっています。

地域内の汚水と雨水は、合流と分流式とでこのセンターに運ばれ、金魚や鯉が住める程度に浄化されて寝屋川から大阪湾に放水されています。

中央操作室を見学後、地下の汚水、雨水の取り入れ口へ。ツーンと鼻を刺す強烈な臭いに早々に退散。
次に最初沈澱池(小さな浮遊物を沈殿させ取り除く)⇒生物反応槽(バクテリアを使って有機物、リンを除去)⇒最終沈澱池(ゆっくり流し活性汚泥を沈殿)⇒砂ろ過施設(砂を通してさらに細かい物質を除去して減菌)⇒汚泥は焼却・塩素滅菌された水は放流。
最初の強烈な臭いは徐々になくなり最終的には水は澄み、臭いもなくなっていました。

最後に、処理された水をパックテスト(写真下左、ピンク色が合格)や処理に欠かせないバクテリア(写真下右クマムシ0.5ミリ)を顕微鏡で観察して終了。

我々の生活に欠かせないのは飲み水ですが、飲み水と同じように使用後の水がスムースに流れて処理されている事で我々の生活が成り立っていることがよく理解できました。
関係者の皆様お世話になり、有難うございました。

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一休寺

2018年11月28日 | 風景
昨日、しばらく風邪で臥せっていた相棒と共に、一休寺の紅葉見物へ。
今年の紅葉の候補は、一休寺と箕面。
相棒の体調を考え歩くことの少ない一休寺にしました。

近鉄新田辺駅から臨時バスで一休寺へ直行。
バス停付近には観光バスが数台、観光客と共に数分で到着。

山門を入った所から紅葉のトンネル、皆さんカメラに夢中、私も負けずにパチリ。

酬恩庵 一休寺
鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが初めで、元の名は妙勝寺。

元弘の戦火にて焼失していたものを一休(宗純)禅師が康正年中(1455~56年)宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に酬いる意味で酬恩庵と命名。

禅師は、ここで後半生の生涯を送り81歳で大徳寺住職になった時もこの寺から通い、文明3年(1481年)88歳で示寂。遺骨は当寺に埋葬。
一休禅師は、後小松天皇の皇子であるので陵墓は宮内庁管理。宗純王廟は当初慈楊塔と呼ばれていたが現在は法華堂と改称されている。
このことから一般には一休寺として知られる。

方丈は、1650年加賀三代目前田利常により寄進。国の重文。内部襖絵は狩野探幽筆。本尊は一休禅師で木造を遠目に拝観できる。この木造の頭髪と髭は一休禅師のものと伝わる。(写真上右・ホームページより)
方丈周囲の庭園は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六昌俊三名の合作で江戸初期の禅院枯山水庭園で名勝指定。

境内には「このはしわたるべからず」の橋、方丈内には「虎の屏風」があり、一休さんのとんち話が思い出されました。

「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」の歌があり、正月を迎えるたびに思い出すことがありましたが、一休さんの作で一休さんがしゃれこうべを持ってこの歌を歌って踊りながら歩いたことを知りました。

今年の5月、この近くにお住いのT氏のご案内で一休寺他南山城の寺社にご案内頂いた際、一休寺のカエデが多く紅葉時期には来ようと思っていたことが実現できました。
平日のお蔭でそんなに混んでおらず、小春日和の中見事な紅葉をゆっくり拝観できました。
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第26回 うえまち寄席

2018年11月25日 | 伝統芸能
昨日、徒歩数分の大阪市立社会福祉センターでの落語会「うえまち寄席」へ。
出演者は、いつもの桂ちょうばさんと桂さん吉さん。


まず、桂ちょうばが昨日決まった大阪万博決定のニュースを枕にしたあと、灯し油代を臨月の女房に渡さず遊びまわっている遊び人に大家さんが虫売りをやらせる。虫売りの最中産気づいた知らせを受け帰宅。産婆さんが来て暗がりで灯し油を点けろと言われるが家には無い。売り物のホタルが気を利かして室内を飛び回り明るくする。(題名不明)

座を温めた後、桂さん吉が「七段目」。
芝居好きの道楽息子と、これもまた芝居好きの丁稚とが演じる忠臣蔵七段目を階下の旦那が苦々しくしている様子を身振り、表情も加えて熱演。

トリは、桂ちょうばの「除夜の雪」。
寺で除夜の鐘を撞く準備中の小坊主3人、ケチな和尚の悪口を言う先輩に対して入門3か月の小坊主がちゃっかり和尚からくすねた炭や目刺しで楽しんでいる。そこへ檀家の伏見屋の若御寮人さんが借りていた傘を返しに来る。帰った後伏見屋の番頭が、貧乏な家から嫁に来たためいびられていたという若御寮人さんが、首を吊って亡くなったので和尚さんにすぐ来てほしい、返しに来たその傘は私が頼まれていたのを忘れていた。先ほど来た若御寮人さんは義理堅く借りた傘を返しながらお別れに来たのでしょう、と。
家格の違う嫁はいびられる、不釣り合いな縁は組むものではない、という教えを、最後の落ちで、あれが釣鐘、こちらに提灯(「釣鐘に提灯」)。

途中、御寮人さんの幽霊登場の場面でしんみりした以外、大笑いの連続で今回も楽しい一時が過ごせました。




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第4回大阪シティーウオーク・大阪城天守閣前

2018年11月19日 | 大阪シティーウオーク
昨日、第4回シティーウオークに参加。
今回は、大阪城天守閣前から中之島経由森ノ宮まで戻って来る約9キロのウオーキング。

コースは、
大阪城天守閣前⇒極楽橋⇒京橋公園コムズガーデン⇒造幣局⇒大塩の乱槐跡⇒天満天神繁盛亭⇒大阪天満宮⇒中之島公園⇒大阪中央公会堂⇒五代友厚像(北浜)⇒前島密像⇒八軒家浜船着場跡⇒大阪城大手門⇒もりのみやキューズモールBASE。

大阪城内で出会うのは中国人、韓国人のほか西洋人も多くとても日本とは思えません。地震以降減っていたインバウンド客も戻ってきているようです。

集合時間10時から阪神のエースであった上田次朗氏の掛け声で準備体操後出発。

大阪城天守閣・・秀吉が天正11年(1583年)築城、大坂夏の陣で落城後徳川幕府によって再築されたが落雷により天守閣焼失。その後天守のない城であったが昭和6年大阪市民の寄付によって復興された。現在残っている櫓や石垣は徳川時代のもの。現在残っている井戸の中等に豊臣時代の石垣が残っている。

極楽橋・・本丸北端の山里丸と二の丸を結ぶ全長54mの橋。戊辰戦争で焼失し現在の橋は昭和40年に再建。豊臣時代の橋は豪華絢爛で屋根付であった事は、近年オーストリアで発見された豊臣期大坂図屏風で確認されている。
(写真上左大阪城側からはOBPの高層ビル群・写真上右渡り終え振り返ると大阪城が望めます)

京橋公園コムズガーデン・・地下鉄京橋駅に隣接し空中庭園のあるグルメの地下街。屋上は京橋公園で都会のオアシスとして市民に親しまれている。

造幣局・・近代国家を目指す明治政府は最新式の貨幣鋳造工場を建設。明治4年創業。毎年4月に行われる八重桜の通り抜けは今も人気です。

大塩の乱槐(えんじゅ)跡・・江戸時代後期儒学者で大坂町奉行与力であった大塩平八郎が天保大飢饉で飢え苦しむ庶民のため起した乱が大塩平八郎の乱である。碑は、天保8年挙兵した大塩方の砲弾がここにあった樹齢200年の槐の木に着弾した所に建つ。

天満天神繁盛亭・・平成15年桂三枝(現6代目文枝)が天神橋商店街に落語会の行える空き店舗の提供を依頼。大阪天満宮の厚意で用地の無料提供を受け落語専門の寄席が復活。平成18年開業。

大阪天満宮・・日本の三大祭りの一つ天神祭が行われ、菅原道真を祀る神社。江戸時代の記録だけで7度の火災に遭い、大塩平八郎の乱の際には全焼。現在の本殿はその全焼の6年後の天保14年に再建。

中之島公園・・明治24年大阪市で最初の公園。堂島川と土佐堀川にはさまれた延長1.5キロ、面積10.6haの緑あふれる都会のオアシスとなっている。
(写真下左・公園の先端剣先の噴水)

大阪中央公会堂・・株の仲買人岩本栄之助の寄付により大正7年完成、今年は100周年。株で大儲けをした岩本栄之助は寄付後株で大損をし完成の前に自殺。

五代友厚像・・薩摩藩士、欧州留学の経験を買われ明治元年外国事務局判事として大阪在勤となり、大阪経済を立て直すため商工業の組織化、信用秩序の再構築を図り近代商工都市大阪の礎を築いた。それらの功績を顕彰するため数体の銅像が大阪市内に建てられている中でこの北浜の銅像は最大。

前島密像・・日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。郵便や切手、葉書という名称を定めた。その功績から郵便制度の父と呼ばれる。

八軒家浜船着場跡・・大坂と京都伏見を結ぶ水運の拠点で幕末期には薩長など倒幕派、新撰組をはじめとする佐幕派を問わず多くの志士がこの地を訪れた。当時の大川は今よりも川幅が広く、この碑の建つ現在の土佐堀通り南側まであった。

(写真は左から千貫櫓・多門櫓・大手門)
千貫櫓・・元和6年(1620年)築の隅櫓、大坂城最古の建造物。織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた時に、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。
多門櫓・・嘉永元年(1848年)に再築。現存する多聞櫓の中でも大坂城の多聞櫓は最大規模。
大阪城大手門・・寛永5年(1628年)、徳川幕府により大坂城再築工事の時に創建。重文。

もりのみやキューズモールBASE・・近鉄球団の準本拠地日生球場の跡地に平成27年開業したショッピングセンター。目玉は屋上に設置されたエアトラックでランニングが出来るトラックを併設。

最近のウオーキングでは「ゆっくり完歩」を心がけており、素晴らしい青空の下約9キロを2時間20分、15578歩で完歩。
途中では、紅葉の深まった風景にも出会うことができ楽しく歩けました。
関係者の皆様に感謝です。

また、ゴール手前で教育会館(現パル法円坂)の前を通り、建物は建て替わっていますが53年前ここで結婚式を挙げたことを思い出し、53年のなんと早い事か、あっという間であり相棒と巡り会えたことの幸せをつくづく感じさせて頂けたことにも感謝です。
次回の第5回(最終回)は来年3月です、健康に気を付けて参加したいものです。
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ハツユキカズラ

2018年11月16日 | 植物
先日の岸和田市山直地区散策時、石垣を這うハツユキカズラが美しく紅葉していました。

ハツユキカズラ
キョウチクトウ科テイカカズラ属のツル性低木。

葉は小さく、新葉にピンクと白の不定形の斑が入る姿が美しく、斑は成長と共に色が変化する。
新芽の淡いピンク色から徐々に白味が強くなり、緑の斑が入っていき、最終的には緑一色になる。
葉色の変化は鮮やかで、遠目からは花が咲いているように見える。

ハツユキカズラの名前は、この美しい斑が初雪が積もったように見えることに由来している。
秋から冬にかけて、寒さに当たると葉は赤く色付き紅葉する。

成長がゆっくりとして、コンパクトにまとまるので扱いやすく、寄せ植えやハンギングバスケット、グラウンドカバーなどに多用される。
枝を長く伸ばして、あんどん仕立てにしたり、フェンスに絡ませることもできます。

家の近くの街路樹の根元に植えられ元気に育っており、紅葉するのが楽しみです。
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