大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

彦根城玄宮楽々園・屋形船

2017年07月30日 | 風景
7月26日、長良川鵜飼からの帰り道、彦根に立ち寄り。
駅前の井伊直政の銅像に挨拶後、タクシーにて玄宮楽々園へ。
築城410年を迎える天守閣には何度も訪れていますが玄宮楽々園は初めてです。

玄宮楽々園
江戸時代、4代藩主井伊直興が延宝7年(1679年)造営した槻御殿と呼ばれた彦根藩の下屋敷。
幕末の大老井伊直弼はここで生まれています。

庭園の玄宮園は、玄宗皇帝の離宮をなぞらえて命名され、中国の瀟湘八景あるいは近江八景を模して作庭されたといわれる回遊式庭園です。
池に臨んで臨池閣、鳳翔台(茶室)などの建物が設けられ、彦根城を借景とする江戸初期の大名庭園として、国の名勝に指定されている。

現在は、庭園部分を玄宮園、庭園部分を楽々園と称しています。

強烈な陽射しの中、木陰沿いに大きな池の周りを巡り借景の彦根城も望みながら庭園内を鑑賞。
その後、玄宮園前の屋形船乗り場へ。

彦根城屋形船
彦根藩は、近江の国第一の大藩で琵琶湖の水上交通を支配しており、藩主の井伊家は徳川幕府の譜代筆頭家臣であり、代々京都守備にも任じられ一朝事あらば速やかに帝を内裏から彦根に御移しするという密命を帯びておりました。
その為彦根藩には大小120艘の御用船が備えられており、彦根から京都御所まで3時間を切る高速船や大量の足軽を運ぶ大船等もありました。

彦根城屋形船は、その内の一艘で藩主が領内の視察、大名公家の接待、湖上での鷹狩等に使った藩主御好屋形船を当時の絵図面や幕末の古写真からほぼ当時の寸尺で復元したもの。

屋形船は、岐阜からの子供連れ4人の同乗者と共に船頭さんの解説を聴きながら、天守閣を囲む内堀をゆったりと進みます。
船べりからは、烏鷺の競演も楽しめました。
解説では、彦根藩は参勤交代の提案を徳川家光にしたことから参勤交代を免除されていた、との説明でしたが、彦根藩は京都に近く幕府側の雄藩として政治・文化の中心であった近畿地方一帯に睨みを利かす為に相応の石高を軍事力として必要としていたから、というのが免除の正解でしょうか。
その為藩は裕福で、足軽でさえ庭付き一戸建てに居住していたそうです。
彦根城の石垣は、斜面の犬走りが特徴だそうですが、実は石垣の石を節約するためであったようです。

堀の上は涼しく休養できました。
遅めの昼食後、彦根駅に戻って帰途へ。
新快速の中では二人ともグッスリ、楽しかった旅も無事終了。

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岐阜城・長良川鵜飼い

2017年07月27日 | 史跡
7月25日から一泊で岐阜へ鵜飼見物に。
青春切符を利用し、大阪駅8時21分発。米原・大垣で乗り換え岐阜着10時52分。

観光案内所で情報入手後、速めの昼食を終え駅前の金色の信長像に見送られて岐阜公園へ。
岐阜市歴史博物館にて、今年信長が斎藤氏を倒した後岐阜と命名して450年を迎えた町であることを再認識した後、正法寺にて高さ13.7mの岐阜大仏(県重文)を見学。

岐阜大仏
日本一の乾漆大仏は、第11代惟中和尚が相次ぐ大地震や大飢饉の災害で亡くなった人々の菩提のために、大釈迦如来像の建立をはかり天保3年(1832年)38年の製作期間を経て完成。
胎内仏の薬師如来像は、土岐氏の本尊であり平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承がある。

その後、ロープウエイを利用して金華山を上りましたが着いてからが難所。
岐阜城まで徒歩8分と説明書には記載されていましたが全くの間違いで、急な石段を上ること約15分。
やっと岐阜城に到着、天守閣も急な階段を上りますので相棒はギブアップ。

天守閣上を吹き渡る涼風に癒され、眼下の長良川や遠く連なる伊吹山の山並みを斎藤道三・信長も望んでいたであろうと、司馬遼太郎作「国盗り物語」を思い出していました。

長良川を渡って本日の鵜匠の宿へ。
夕食までの時間を利用してすぐそばの「長良川うかいのミュージアム」で鵜飼いの歴史を学びました。

長良川鵜飼い
ウミウを使った漁が1300年前から続いている。(各地で鵜飼を表現した埴輪を発見・古事記にも記載有)

宮内省は明治23年、長良川流域の3か所を御猟場(現在の御料場)と定め、通年の禁漁区としました。同時に、鵜匠は宮内省主猟寮に所属し、現在岐阜に6人と上流の関市に3人のみで身分は宮内庁の職員であり男系男子のみで受け継がれている。
その内の一人の弟さんが始めた宿に本日お世話になることも知りました。

シーズンに3回御料場にて鵜飼を行い、採れた鮎を天皇家へ届けているそうです。

早めの夕食(アユの塩焼きとアジメドジョウの甘露煮は絶品でした)を済ませ、7時過ぎ宿の前から乗船。

15人乗りの屋形船の乗客は6人、ゆったり鑑賞できます。
対岸に停泊、その前を多くの屋形船が上流へ。
上流から6人の鵜匠がくじで決めた順番に下り、その鵜飼舟に沿って多くの屋形船も下ります。

鵜匠が身にまとうのは、昔ながらの古風な衣装。頭には風折烏帽子をかぶり、漁服と胸あてを着て、腰蓑をつけ足半をはいています。
服の色は黒か紺色、これは鵜が自分と反対の色を警戒心をもつと言われていることから。このように、鵜匠と鵜が一体となって夜の暗闇にまぎれて鵜飼は行われるのです。(写真最下部)

下った6隻が、又上流へ。
今度は6隻が間隔を詰めて並んで下ってきます、総がらみというそうで、6人の鵜匠がそれぞれ乗り込んだ鵜舟が横隊になり、浅瀬に鮎を追い込んで巻き狩りする漁法。

その後、1隻が私達の前へ戻ってきて特別に鵜飼を見せてくれました。
船頭の話しでは、私達の宿が鵜匠の宿ですので特別サービスです、と。また、採れた鵜の仕分けもこの宿で行ってる関係で夕食に出る鮎は他の宿とは一味違うそうです。

最後には、その鵜飼舟が私達の屋形船の隣で片付けを始めます。
一働きを終えた鵜たちも船に引き上げられ獲った鮎を取り上げられています。
鵜の食事は、この後たっぷり与えられるそうです(一日1回)。
その船頭さんに、本日の成果を尋ねますと、15匹でまぁまぁ、とのことでした。

長良川の鵜飼い漁の技術は、国重要無形民俗文化財・鵜飼用具一式122点は国重要有形文化財であり、長良川の鮎は世界農業遺産に指定されていることを知りました。

間近で鵜匠の巧みな技を見せて頂き、相棒共々大満足。
屋形船は宿の前へ、温泉にゆっくり浸った後のビールを満喫して就寝。
よく歩いた一日でしたので、相棒は朝までグッスリ。

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ケサランパサラン

2017年07月23日 | 植物
本日、司馬遼太郎記念館にて珍しいものを捕獲しました。

玄関前で立っている私の目の前を、径5センチ位の丸い白いものがフワフワ漂っています。
タンポポの綿毛かと思いましたが、下についている種の部分がありません。

なにかの種かと思い調べてみるつもりで捕獲、しばらくして、ひょっとすると「ケサランパサラン」の言葉が頭をよぎります。
急いで帰宅、調べてみましたら毛の部分が少し少ないようですが「ケサランパサラン」に良く似ています。

ケセランパサラン
江戸時代以降の民間伝承上の謎の生物とされる物体で、動物とも植物とも判然としていません。

外観は、タンポポの綿毛や兎の尻尾のようなフワフワした白い毛玉とされ、一つ一つが小さな妖力を持つ妖怪とも言われ未確認動物として扱われることもある。
西洋でゴッサマー (gossamer) やエンゼル・ヘアと呼ばれているものと同類のものと考えられている。

名前の由来については、スペイン語の「ケセラセラ」が語源だという説、「袈裟羅・婆裟羅」(けさら・ばさら)という梵語が語源だという説、羽毛のようにパサパサしているからという説、「何がなんだかさっぱりわからん」を意味する東北地方の言葉との説などがある。

穴の開いた桐の箱の中でおしろいを与えることで飼育でき、増殖したり持ち主に幸せを呼んだりすると言われている

数十年前にブームになり名前を思い出しましたが、出会えるとは思っていませんでした。
出会うと幸運に恵まれるとのことですが、人に話すとその効果は逃げるともいわれますのでブログで公開しご覧頂いた方に幸運のお裾分けをしたいものです。
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比叡山東塔地区

2017年07月19日 | 史跡
昨日、高大歴考同窓会にて比叡山へ。

参加者9名例によって早めの集合、大阪駅10時15分発、大津京駅10時55分着。
迎えのバスで眼下に琵琶湖を望みながら比叡山延暦寺会館へ。

以前西塔地域での体験修行を思い出しつつ昼食の精進料理を頂いた後、ボランティアガイドのご案内で伝教大師最澄が延暦寺を開いた東塔地区を巡ります。

麓の坂本から徒歩にて上ってきた時の入り口にあたる文殊楼(重文)へ。
文殊菩薩を祀ってあることから文殊楼と呼ばれ、現在の建物は寛文8年(1668年)焼失後すぐに再建された。

延暦年間に創建された根本中堂(国宝)は、織田信長の焼き打ち後徳川家光が寛永19年(1642年)再建。
欅の柱76本で立つ堂は延暦寺総本堂であり比叡山最大の建物。本尊は、最澄が自ら刻んだ秘仏薬師如来。

平成28年から大改修中(平成38年頃完成予定)で建物全貌は見ることができませんでしたが、内部(中陣)にて開創以来1200年の時を超えて輝き続ける不滅の法灯の前で法話をお聞きしました。
印象に残ったお話は「念じ念じを疑うな」。
意味は、祈りとは「決して疑うことなく心から念じ続ける」ことであって、そうすることにより苦しみは消えていく(観音経)、ということのようです。

開運を呼ぶ鐘を撞いて僧が学問修行をする大講堂(重文)へ。
昭和39年に山麓坂本の讃仏堂を移築。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られ、外陣には釈迦を始めとして仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっています。

天台宗の僧侶が戒律を授かる重要なお堂、戒壇院(重文)へ。
828年創建、本尊釈迦牟尼如来。現在の建物は延宝6年(1678年)の復興。

各堂へは急な石段を上ってお参りをしてきましたが、いよいよ最後の石段、手すりにしっかり掴まって上り阿弥陀堂へ。
本尊は丈六の阿弥陀如来。比叡山開創1150年大法要を記念して昭和12年建立された先祖回向の道場。

その左隣の東塔
昭和55年に阿弥陀堂の横に再興。最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て日本を護る計画をされ、その中心の役割をするのがこの東塔になる。
本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。

比叡山上は、気温が5度位低く階段の上り下りや歩いていても殆ど汗もかかずに東塔地区を巡り終え、予定より早いバスに乗車し京阪出町柳駅で下車。
駅前でティータイム、その間外は猛烈な雨、よい雨宿りになりました。
今回担当の第3班N氏と皆様、有難うございました。
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長谷寺大観音特別拝観

2017年07月17日 | 史跡
猛暑の昨日、西国三十三霊場第8番札所、長谷寺へ。
近鉄大阪線長谷寺駅から長谷寺まで急勾配の坂を下って徒歩約20分、門前で受け付けを済ませて暫し休息。

本日ご案内を頂く修行僧に伴われ明治27年再建の仁王門をくぐり境内へ。
「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。
目の前には長谷寺特有の登廊が聳えています。

登廊は、下廊(237段・段差約8cm)中廊(72段・同約14cm)上廊(90段・同約16cm)計399段の階段があり、その段差は廊毎に段々高くなるように変えてあるそうです。
上廊は平安時代に造られ、下と中廊は明治時代再建で風雅な長谷型灯籠が吊るされており、中廊手前の石橋は重文。

色々な説明を聴きながら399段を上り着いた所が鐘楼(折れ曲がった三つの登廊を大きな蛇に見立て、この鐘楼の鐘を尾上の鐘と呼ぶ)。
鐘楼の先に本堂があり、本堂前の舞台からの眺望はそれは素晴らしく、吹き抜ける風の涼しさと共に疲れも吹き飛ぶ思いがしました。
本堂に架かる「大悲閣」の文字、意味は慈悲深い観音のおられる堂、だそうです。
現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て慶安3年(1650年)に落慶。

いよいよ国宝の本堂へ、ご本尊(重文)とのご対面です。
ご本尊との結縁の五色線を手首にして内陣へ。
内陣内は、暗いうえ天井は低く足元は段差があり、何とも歩きにくかったのですが突然ご本尊が眼前に。
と言っても見えるのは足元だけ。首を後方へ90度見上げて、やっとお顔が見えました。
像の高さ10m、こんなに大きな仏像は初めてです。
相棒と共に足元をさすりながらお願い事・・・。

ご本尊は、右手に錫杖と数珠、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。
現在の御尊像は、室町時代の天文7年(1538年)に大仏師運宗らによって造立されました。
像高三丈三尺六寸(1018cm)。我が国で最も大きな木造(樟)の仏像。

本日ご案内頂いた修行僧さんに感謝です。有難うございました。
長谷寺には、西国巡礼、牡丹の時期等何度か訪れていましたが、ご本尊に巡り合えたのは初めてで相棒と共に感激に浸り、名物の草餅をお土産を手にし帰途に。
秋の特別拝観は、10月14日から12月3日だそうです、駅前からタクシーもありますので是非ご参詣ください。
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