大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

森鴎外記念館

2019年10月31日 | 史跡
10月23日帰阪、午前中を利用して森鴎外記念館へ。
「舞姫」を読んだこともあり、6年前のドイツ訪問時ベルリン森鴎外記念館(鴎外最初の下宿先・写真下左と中)を訪問しましたが、改装中で休館、残念な思いをしました。
代わりにドイツの鴎外ゆかりの地、ライプツィヒのレストラン(アウアーバッハス・ケラー)の鴎外の絵(写真下右)の前で昼食を摂りました。

東京メトロ千駄木駅から団子坂を上って徒歩5分、モダンで上品な趣の記念館着。

森鴎外記念館
文久2年(1862年)島根県津和野町に代々津和野藩の御典医を務めた森家の長男として生誕。
明治の文豪森鴎外が誕生して150年目の2012年、2008年より改築のため休館しておりました「文京区立本郷図書館鴎外記念室」が、新たに「文京区立森鴎外記念館」として生まれ変わりました。
文京区千駄木は、鴎外がその半生を過ごした地です。記念館が建つ場所は、鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、鴎外は明治25年から、亡くなる大正11年までここで過ごしました。

観潮楼は、鴎外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となりました。昭和12年に借家人の失火により母屋の大部分が焼失。昭和20年には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失してしまいました。
小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医と、いくつもの顔をもつ鴎外は、その業績から傑出した才能は明らかですが、文化人たちとの交流からも人間鴎外の大きさを知ることができます。

この建物は,殆ど全て職人の方々の手作りで出来ています。そのなかのひとつ外壁レンガの削りは,作業服が真っ白になるほどの大変な作業でしたが、若い職人の方々の懸命な取り組みにより素晴らしい壁に仕上がりました。
設計者の陶器二三雄氏は、当館の設計により2014年 第55回BCS賞・2015年 日本芸術院賞・日本建築学会作品選奨の賞を受賞されました。

永井荷風は、鴎外を尊敬し師と仰ぎ「文学者になろうと思ったら大学などに入る必要はない。鴎外全集と辞書の言海とを毎日時間を決めて三四年繰り返して読めばいいと思って居ります。」と敬愛を込めて言っている。

現在の企画展「永井荷風と鴎外」を見終えて、相棒と共に帰阪の途に。
この度は娘夫婦に大変なお世話をお掛けしました。お蔭様で行きたかったところへも行くことができ、またとても楽しい時間が過ごせました。有難う。




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漱石山房記念館

2019年10月28日 | 史跡
10月22日、相棒と共に漱石山房記念館へ。
今回の上京の目的の一つが漱石山房記念館訪問、やっと念願がかないました。
子供の頃、机に向かうことは苦痛以外の何物でもなかった私にとって、家にあった夏目漱石・山本有三全集を読んでいた時だけが私にとって唯一机に向かえていました。

漱石山房記念館
漱石は大正5年に亡くなるまでの9年間「漱石山房」と呼ばれたこの土地で、鏡子夫人と二人の子供達と暮らし毎週木曜日の午後には門下生が集う「木曜会」が客間で開かれた。

漱石ゆかりの土地はあるものの、漱石山房が昭和20年の空襲により焼失した後には、戦後の復興の中で都営住宅(後に区営に移管)が建てられ、住宅の移転を実施するタイミングでの建設着手。
当初、記念館にしては漱石関連の資料が乏しい状況もあったが、整備が進むにつれ、ご遺族や関係者のご尽力で資料が集まり始め、夏目漱石生誕150年にあたる平成29年9月24日、多くの方のご協力(私も寸志を)を得て「漱石山房記念館」を開館。
基本方針は、『漱石を発信する活気とにぎわいのある記念館に。漱石文学とともに、ゆったりとした時を過ごせる記念館に。』

夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎(写真上左)、客間、ベランダ式回廊を、記念館内部にできる限り忠実に再現。
漱石と記念写真。(写真上右)
隣接の漱石公園には、富永直樹作の漱石胸像と猫の墓(写真下中)がある。

漱石誕生の地(現喜久井町)は、ここから徒歩10数分のところにあり弟子の安倍能成の筆になる石碑(写真上右)が建てられている。
喜久井町という地名は、漱石の父直克が夏目家の家紋「井桁に菊」にちなんでつけられた。

「坑夫」以降の作品「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こヽろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などが漱石山房で執筆された。

漱石のお墓は、雑司ケ谷霊苑にあり翌日出掛けてきました。
私にとっての漱石は、山本有三と共に本に馴染むことのできた恩人です。
家には、復刻版の「漱石全集」がありますので、また読み直してみようと思いつつ子供達との昼食会場へ。
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川越祭

2019年10月27日 | 風景
10月20日、相棒と娘と共に川越祭へ。

先日の川越散策時「川越まつり会館」にて、山車の実物や祭りの様子をビデオで鑑賞しており、娘から今年は今月19・20日に行われるとの情報で出掛けました。
最初に、老若男女が担ぐ神輿が目の前を通過、次に山車の先触れ方・露払いに次いで子供達の手古舞が通ります。
山車は、高さ約8mを誇り京都の祇園祭にそん色ない立派なものです。

川越祭
10月14日に氷川神社が執行する「例大祭」を根源として、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っている。
現在は、毎年10月の第3土曜日と翌日曜日に開催。
祭の起源は、慶安元年(1648年)に当時の川越藩主、松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭・太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことが始まり。(写真下・手古舞)

慶安4年(1651年)から華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、町衆も随行するようになった。
当初の「神幸祭」は、氷川神社の神輿行列が 氏子の町々を渡御し氏子域の十ヶ町が仮装行列などの練りものの附祭りで供奉していた。
元禄11年(1698年)、十ヶ町の一つ高沢町が江戸の祭礼に習って初めて踊り屋台を披露した。 踊り屋台は当時の江戸祭礼の花形であった。
その後、江戸の祭礼で山車が主役となったのを機に、天保15年(1844年)には、十ヶ町の山車が絵馬にも残されるように、すべて一本柱型式に統一され、勾欄の上に人形を乗せるようになった。
精巧な人形を乗せた絢爛豪華な山車が、小江戸川越の象徴である蔵造りの町並みを中心に町中を曳行される。何台もの山車が辻で相対し、すれ違うさまは、そのスケールの大きさに見物客を圧倒する。(夜間に行われる「曳っかわし」は祭りの見所)
(写真下・牛若丸と弁慶)

祭に参加する山車には四輪と三輪があり、多くは囃子台が水平方向に360度回転する作りとなっています。
また各町の山車の上段には能や雅楽、神話や英雄などを題材にした人形が乗せられています。この人形も、古いものは江戸時代後期に製作されています。
山車の後方の鉾と呼ばれる部分は二重構造になっており、上下に可動します。電線などがある場所では人形や鉾が上下して障害物を避けることができます。元々は江戸城の城門をくぐるための仕組みとされていますが、現在の祭でも生かされています。
(写真下・三番叟と家康)

山車の前部には囃子台があり、その上では囃子連による囃子、舞が披露され、編成は舞1人、笛1人、小太鼓2人、大太鼓1人、鉦1人。
現在山車は29基(各町内28基・山車を持たない町内を代表して川越市が1基)あり、今年は18基参加。
国指定重要無形民俗文化財でユネスコ無形文化遺産。

蔵造りの町並みの四つ辻で、娘の調べてくれた巡行時刻表と首っ引きで次々と曳行される見事な山車9基を見学。
素晴らしく立派な人形や欄間・幕類を持つ山車のほとんどは県指定文化財で、山車上部の人形と唐破風下囃子台の囃子と踊りを堪能しました。
人形はカラクリではありませんでしたが、代わりに囃子台が左右に回転し、その中で狐やオカメ等の面をつけた踊り手が面白おかしく舞っていてとても楽しい時間でした。
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六本木ヒルズ

2019年10月25日 | 風景
10月19日、国際文化会館での国民会館東京講演会に参加。
終了後、玄関前から見える六本木ヒルズへ。
お上りさんよろしく道行く人に聞きながらビルの谷間から見える高層ビルを目指します。

六本木ヒルズ
平成15年4月に開業した東京都港区六本木6丁目にある複合商業施設。
高さ238mの高層オフィスビル (六本木ヒルズ森タワー)を中心に、集合住宅 、ホテル 、テレビ朝日本社社屋、映画館をはじめとする文化施設、その他の商業施設等で構成されている。
事業主は森ビルで、六本木6丁目地区の都市再開発として、完成までには約17年の歳月を要している。

敷地は、長門長府藩主(長州藩毛利家の分家)だった毛利綱元の麻布上屋敷の広大な庭園跡地やニッカウヰスキー東京工場跡地等で、長門長府藩出身の乃木希典もこの地で生まれ、また赤穂浪士討ち入り後浪士10名(岡島八十右衛門他)が預けられ切腹した屋敷でもある。
現在、ひょうたん池や周りの緑地が復元されている。

六本木ヒルズ森タワー(54階建て)は、ブランド街のショッピング・モール、オフィス、上層部は展望台の東京シティビューや文化施設、美術館などで構成される。
「アイディアが生まれる都市」六本木ヒルズ。六本木ヒルズは"open-mind"な人をはぐくむ街です。安全で、世界中の人をあたたかく迎え入れるように考えられている。

ビルの前では、全国の焼酎展が開催されていて多くの呑み助がグラスを傾けていました。
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川越散策

2019年10月25日 | 史跡
10月18日、小江戸と呼ばれる川越へ。
JR川越駅の観光協会へ、おすすめの小江戸名所めぐりバスを利用して、蔵造りの町並み⇒時の鐘⇒川越まつり会館⇒川越氷川神社⇒川越城本丸御殿⇒喜多院⇒成田山川越別院を巡ります。

蔵造りの町並み
川越の中心にあり、趣深い蔵造りの町並みが残る。
町並みが出来上がったのは明治時代。明治26年の川越大火の後耐火建築である蔵造りが採用されたことによるもので、現在も約20棟の蔵造りが軒を連ねます。
平成11年には、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定。

時の鐘
江戸時代の寛永年間(1624~44年)に川越藩主酒井忠勝によって建てられた。現存の鐘楼は明治時代の大火の直後に再建され、約390年もの間時を刻み現在は1日4回(6時・正午・15時・18時)由緒ある鐘の音を聴くことができる。

川越まつり会館
川越まつりで実際に曳かれる本物の山車2台を定期的に入れ替え展示。本日は、川越市の「猩々の山車」と三久保町の「頼光の山車」が展示されている。
大型スクリーンではまつり当日の映像を約6分間上映。上映後にはスタッフから説明があり質問にも丁寧に答えて頂けました。

川越氷川神社
創建は、約1500年前の古墳時代といわれ、縁結びの神様として信仰を集めている。大鳥居は木製では日本最大級の大きさを誇る。

川越まつりは、氷川神社の例大祭で毎年第3土、日曜日に催され、今年は29基ある山車のうち18基が出るそうです。10年毎に29基すべてが巡行されるそうで、次回は令和4年だそうです。ユネスコ無形文化遺産・国の重要無形民俗文化財。
境内には、鯛をモチーフにしたお守りが多く販売されていました。

川越城本丸御殿
長録元年(1457年)に築城された川越城(太田道真・道灌親子等築城)は17万石を誇る広さだった。その後本丸御殿は嘉永元年(1848年)に造営され、現在は玄関・広間等・家老詰所が残っている。

玄関は、巨大な唐破風屋根に間口3間・8寸角の太い柱で大名御殿に相応しい威容を感じさせる。
広間は、36畳の広さを誇る御殿内で2番目に大きかった座敷で、来客が城主のお出ましまでの間待機する部屋。
家老詰所は、本丸御殿に勤務していた藩の家老(参勤交代で不在であった藩主に代わって藩政を取り仕切っていた)が詰めていた建物。
広間に隣接する使者の間等多くの部屋を取り囲む大廊下も幅1~2間あり、格式高さが感じられる。

喜多院
平安時代淳和天皇の詔により天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建。本尊は阿弥陀如来。
3代将軍家光が、江戸城から自身誕生の間や春日局化粧の間等を移築。徳川家とのゆかりも深く建物の多くが重文。

だるま市が有名で「川越大師」として親しまれる。
境内の五百羅漢石像は天明2年(1782年)から約50年間にわたり建立され、全部で538体が鎮座。
境内の茶店で遅めの昼食と共に地ビールを頂き小休止。

成田山川越別院
川越のお不動様として親しまれている。
「おびんずるさま」がおられましたので、例によって目がこれ以上悪くならないようにお願いして来ました。

見学を終えて、バスで川越駅へ。
川越訪問は、東京での勤務時代以来二度目ですが、随所に歴史と日本の古き良き雰囲気が感じられる素晴らしい町でした。


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