島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝2-1光明天皇

2021-09-16 | 天皇陵巡り
 
 第93代後伏見天皇(1288~1336)の第2皇子で、母は兄光厳天皇(1313~1364)と同じく女性の治天の君になった西園寺寧子の豊仁親王(ユタヒト・トヨヒトシンノウ)ですが、同母兄とは8歳はなれていました。
  伏見区桃山には明治天皇陵や桃山城があったりしますが、JR奈良線が明治天皇陵を避けるように廻りこんだ線路沿いに、大光明寺陵は有ります
 
 建武の乱(1336年)で足利尊氏(1305~1358)が楠木正成たちを破って入京すると、比叡山に退位しないまま逃げた後醍醐天皇に替わって、尊氏の要請で、同母兄光厳上皇の猶子になる形で、豊仁親王は北朝2代光明天皇(コウミョウ)(1321~1380)(在位1336~1348)として即位、15才でした。
光明天皇が本当は北朝初代天皇ということの方が正しいですが、政務は光厳上皇の院政です。
  線路沿いから始まる細長い大光明寺陵、この辺りに伏見宮の大光明寺があったと思います
 
 第81代安徳天皇が三種の神器を持ったまま西国に逃げたので、神器なしで即位した第82代後鳥羽天皇にならって、神器なき即位となりましたが、その後後醍醐は神器を光明に返しています。(まあその後、返した神器は偽物だよとも言ってますが)
  本来なら南朝が正統なので、北朝天皇陵を宮内庁が管理するのはおかしな話ですが、なにせこの北朝が今の天皇家に繋がってるので(後醍醐の血は全く入っていません)、まあしかたないですかね
 
 光明即位後は一旦都に戻った後醍醐に大上天皇の称号を与え、両統迭立の原則から後醍醐の皇子成良親王を皇太子に立てました。
しかし、後醍醐が吉野に去ったので、同母兄光厳上皇の息子興仁親王(オキヒト)を1338年には皇太子に立て、これで完全な南北朝争いの時代になりました。
  細長く開放的に続く参道です
 
 1348年同母兄光厳上皇の第1皇子興仁親王に譲位し、崇光天皇(1334~1398)(在位1348~1351)として自らは上皇になった光明ですが、足利家の内紛観応の擾乱に続く南朝による正平の一統で、その崇光も廃されてしまい、とうとう南朝軍によって光明上皇は兄光厳上皇や甥崇光上皇・廃太子直仁親王と共に奈良県賀名生(アノウ)に軟禁、その後河内の金剛寺に移されています。
  拝所は広くなっていました
  
 光明上皇が一番無害だったのか、1355年に一人だけ早目に京都に返された後は、仏門に入り大光明寺に住み、兄光厳と同じように諸国遍歴修行した後に、奈良の長谷寺で亡くなり、この大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られました。
 光明には皇女も少なく、皇子はいなかったようです。
大光明寺陵の陵印は、現在は有りませんでした。

          返事
Toitenlabeeさん:欧亜国際連絡列車にかけたのだと思いますが?
     大丈夫です、
    孫がおかしいと思った頃には、もう私は存在してないと思います。

コメント (1)
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