島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝3-1崇光天皇

2021-09-23 | 天皇陵巡り
 
 父は光厳天皇(1313~1364)(在位1331~1333)で、母は三条秀子(シュウシ)(1311~1353)の興仁親王(オキヒトシンノウ)ですが、1338年後醍醐上皇が吉野へ逃げたので両統迭立は崩れて、叔父北朝2代光明天皇の皇太子になりました。
  大光明寺陵近くには明治天皇陵があるので、殉死した乃木大将を祀る写真の乃木神社もあります
 
 興仁親王は15才で(北朝3代目)崇光天皇(スコウ)(1334~1398)(在位1348~1351)として即位し、父光厳の意思で、皇太子には光厳の養父花園上皇の皇子直仁親王(ナオヒト)(1335~1398)(崇光の叔父ですが、実は弟にあたる不倫の子です)が立ちました。
 3人の妃に3男1女をもうけましたが、その内典侍庭田資子(シシ)(?~1394?)の産んだ第1皇子が栄仁親王(ヨシヒト)(1351~1416)です。
  日露戦争の戦いでも有名な乃木大将の像ですが、名将かどうかは議論別れますね
 
 観応の擾乱から1351年の正平一統で皇位を退き、太上天皇の尊号を贈られた崇光ですが、翌年には南朝軍の京都占拠により、父光厳上皇・叔父光明上皇・廃太子された直仁親王と共に大和の賀名生(アノウ)に、第97代後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の意思により幽閉されました。
  写真のJR奈良線からも見える、大光明寺陵の参道入り口です
 
 この拉致幽閉は、北朝方が二度と天皇を立てられないようにする南朝方の策でしたが、足利幕府は崇光の祖母にあたる広義門院寧子を治天の君として、崇光の弟弥仁親王(イヤヒト)を(北朝4代目)後光厳天皇(1338~1374)(在位1352~1371)としました。
  大光明寺陵印は昔はあったようですが、宮内庁治定陵墓なのに今は陵印が無いのは、やはり北朝方の正式天皇陵ではないからでしょうね
 
 1957年許されて先に入京した光明より遅れること2年、父光厳・直仁親王と共に帰京した崇光ですが、その条件として、子孫ともども二度と皇位を望まないと誓約させられています。
  明るい参道の向こうに拝所が見えてきました
 
 こうして弟の後光厳とは微妙な関係になった崇光は、息子栄仁親王の即位を2回(1370・1382年)も願うも果たせず、1398年65歳で失意のまま伏見で亡くなり、大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られましたが、其の30年後に直系ひ孫が皇位に就き、今の天皇家に繋がっています。
  右の方が崇光陵です

          返事
和さん:みかん屋さんのチャンャ唐ニかまぼこ、
    食べたいです!
大雪男さん:巨人ももたもたしてるので、
    かろうじて持ってる阪神。
    今週の巨人3連戦全敗しなければ、まだ楽しめますよね。
Toitenlabeeさん:どちらかは
    ドクターに続く仕事に就いてくれたら良いのですが。

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