島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝1-1光厳天皇

2021-09-07 | 天皇陵巡り
 
 第93代後伏見天皇(1288~1336)(在位1298~1301)の第3(1?)皇子で、母は女性として治天の君になった西園寺寧子(ネイシ)(広義門院)(1292~1357)の量仁親王(カズヒトシンノウ)ですが、第96代後醍醐天皇(1288~1339)(在位1318~1339)の皇太子だった邦良親王が病死したので、叔父である花園上皇の猶子になって、なんとか替わって後醍醐の皇太子に6歳で立てました。
  写真は光厳天皇が開山した、丹波山国庄の常照皇寺の山門です
 
 自分の息子を立太子させたかった後醍醐は、なかなか譲位はせず、とうとう1331年討幕運動(元弘の乱)を起こしましたが、敗れて廃位され、幕府の指示を得た量仁親王が(第97代)光厳天皇(コウゴン)(1313~1364)(在位1331~1333)として即位しました。
  常照皇寺は京都の北なので、市内よりやや遅めの桜でも有名です
 
 後醍醐天皇皇女懽子内親王(カンシ・ヨシコ)と花園天皇皇女寿子内親王(ジュシ)を妃にしましたし、典侍正親町三条秀子(オオギマチサンジョウヒデコ)との間には、第1皇子興仁親王(オキヒト)(後の崇光天皇)と第2皇子弥仁親王(イヤヒト)(後の後光厳天皇)をもうけています。
 他にも沢山の後宮はいましたが、なんといっても1343年には可愛がってもらっていた叔父花園天皇と正親町実子(ジツコ)の間の子直仁親王(ナオヒト)(1335~1398)は、実は私が寝取って出来た子だと、正親町実子と寿子内親王の親子丼をしたことを、自らが認めています。
  常照皇寺の玄関には、菊の御紋の幕が下がっていました。
もちろん私はここからは入れません
 
 1333年各地で再び兵を挙げた後醍醐軍の足利尊氏などが京都六波羅探題を襲撃したので、北条仲時は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れて東へ落ちのびようとしましたが、滋賀県米原市にある番場宿(番場の忠太郎でも有名な中山道宿)で仲時以下北条一族432人は自刃、光厳天皇達は捕えられ皇位も廃されました。
 これで再び後醍醐天皇は、97代天皇としての光厳の治世を認めずに無かったものとして、天皇に返り咲きました。
  写真のように、常照皇寺の右横から御陵への参道が続いています
 
 その後は建武新政の失政により叛旗を魔オた足利尊氏により治天の君とされた光厳上皇は、同母弟光明天皇を1336年に北朝2代目として即位させ、その後皇子崇光天皇も皇位につけて院政を敷きました。
  常照皇寺に沿って参道を登って行くと、丁度寺の裏山に拝所は仰ぎ見るように有りました
 
    勉強時間;
 源頼朝が開いた鎌倉幕府はイイクニヅクリの1192年と憶えましたが、現在は1185年(イイハコヅクリ)が鎌倉幕府の始まりとされてるようです。
 同じく室町幕府の成立も、足利尊氏が征夷大将軍に就任した1338年(イイミミヤ)ではなく、今は建武式目が制定された1336年だそうです。
 そしてここから室町時代が始まるのですが、室町時代は大きく南北朝期(1336~1392)・室町期・戦国期に分けるそうですよ。
  この御陵は近くまでいけないので、これぐらいしかわかりません
 
 光厳上皇の院政は15年続きましたが、足利家内の争いである観応の擾乱(カンノウノジョウラン)後の尊氏の南朝帰参の1351年正平一統にて、南朝軍によって光厳上皇は崇光上皇・廃太子直仁親王と共に拉致されて、大和の賀名生(アノウ)に幽閉されています。
  光厳・後花園陵と後土御門天皇分骨所を兼ねています
 
 こうして京都御所内で20才過ぎまで女にこまらない公家生活をしてきた光厳天皇ですが、2度も京都から離されり、お供も少ない幽閉生活など不自由な暮らしを経験させられました。
5年後京都に帰った後は、禪に深く帰依し、奈良などの霊場を巡り、晩年は京都の北の奥に常照皇寺を開き隠棲し52才でこの地で亡くなったので、ここに陵があります。
 光厳天皇山國陵(ヤマクニノミササギ)(京都府桑田郡京北町常照皇寺内)

         返事
Toitenlabeeさん:飛んでる鳥も
    驚いて落ちていた頃を見たかったです。
     でも証明写真が可愛いって、すごいですね!
    写真映りが悪くて、ブログに顔を載せられない私には羨ましすぎます。

コメント (1)
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