島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

休日

2021-09-13 | ノンジャンル
 
 緊急事態宣言は京都も9月いっぱいまで伸びてしまいましたが、TVは新型コロナより自民党総裁選の方が面白いのか、新型コロナ関連ニュースは減ってきたようにも感じます。
感染者数も減ってきてはいますが、私以外の医療従事者にとっては、まだまだ厳しい状況ですので、越境は困難で心苦しいですが、毎週の三連休初日は秋晴れ、1日ぐらいは越境しないとあまりにも退屈です。
 滋賀県のこのメタセコイヤ並木で観光スャbトになってるマキノ高原に、栗を買いに出かけました。
 
 秋の青空に導かれてもう一県越境、ひと山越えて福井県敦賀にまで足を伸ばしました。
久しぶりのJR敦賀駅は新装なって、3年後には北陸新幹線が金沢から敦賀まで伸びるので、駅の裏側は突貫工事中です。
この新幹線には乗れそうですが、その後京都か大阪に延びる分には乗れそうに有りませんし、私の子供でさえ乗れるかどうかですよね。
 
 敦賀駅前から気比神社に続く道の途中、60年前からずっと空き地だった印象の有る場所に、平和堂アルプラザが出来ていました。
ここに車を駐車して、駅前を散策です。(駐車券さえ発行せず無料ですが、もちろん帰りには、食料品の買い物とコーヒーを飲んでいます)
 
 かっては東京ー敦賀港を結ぶ「欧亜国際連絡列車」が走っていた敦賀、敦賀港開港100年を記念して、松本零士さんの「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメントが、駅前の商店街から気比神社まで並んでいました。
 
 駅前の店で福井県人のような顔をして食べた「金ケ崎定食」、手ごろな値段で値段以上に美味しかったです。
でもこれで、敦賀に金ケ崎城があったことを思い出し行きましたが、駅からもすぐ近くでした。
 
 金ケ崎城は、敦賀港近くの海に突き出た丘の上にある城ですが、2度目の戦いは、1570年織田信長の越前朝倉攻めに際して、織田軍はこの城を接収しましたが、浅井長政の裏切りに依って撤退を余儀なくされました。
この時織田軍にいた秀吉・家康・光秀の活躍で、信長は無事京都に逃れられたので、この撤退戦を「金ケ崎の退き口(カネガサキノノキクチ)」と言うそうです。
 
 この金ケ崎城跡に有る金崎宮(カネガサキグウ)の祭神は尊良親王(タカヨシ)(1306?~1337)と弟の恒良親王ですので、菊の御紋が社殿には有りました。
 尊良親王のことは最近9月1日の天皇陵巡りブログで取り上げたところですので、本来はもっと早く訪問しても良かったのですが失念してました。
 
 一度目の金ケ崎城の戦いは、1337年に新田義貞がこの尊良親王を大将に就けて、足利軍に対してここに立て籠もりましたが敗れ、尊良親王(30歳)は新田義貞の長男義顕(ヨシアキ)(20歳)と共に自害しています。
 
 もう少し何もない城跡を登って行くと、「尊良親王御陵墓見込地」の碑が立っていました。
この地で尊良親王と義顕は折り重なって自害したと思いますが、墓は京都南禅寺近くにありますので、9月1日のブログ参照してください。

         返事
Toitenlabeeさん:そう売ってるんですが、ちょっと高い!
     1才になった孫が、色白で髪はやや茶色、
    日本製カメラで撮っても可愛いので、「ハーフですか?」と、
    よく聞かれるそうです。
    「祖父がフランス人のクオーター」と答えるように、
    娘には命じてますが、何か問題でも・・・・?

コメント (1)
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