島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

72-1白河天皇

2020-10-23 | 天皇陵巡り
 
 第70代後三条天皇(1034~1073)(在位1068~1073)の第1皇子である貞仁親王(サダヒトシンノウ)は、父後三条天皇がその長い33年にも及ぶ皇太子時代に、母である藤原能信(ヨシノブ)の養女即位前妃贈皇太后茂子(モシ)(?~1062)との間に産まれました。
 
 父後三条天皇が1068年に即位したので、1069年には貞仁親王は立太子し、1071年には関白藤原師実(モロザネ)(頼通の6男)の養女賢子(ケンシ・カタイコ)(1057~1084)が入内しました。
後三条天皇がわずか4年で退位し、譲位された貞仁親王は即位し第71代白河天皇(シラカワ)(1053~1129)(在位1073~1086)に成りました。
  写真の奥に映る白河天皇陵は、京都の南、高速道路の通る南ICの近くです
 
 白河天皇即位と共に、父後三条天皇は藤原北家御堂流を外戚の地位から外したい為か、白河天皇の異母弟でわずか2歳の実仁親王(サネヒト)を皇太子に立て、実仁親王が15才で亡くなると、約束されていたその弟輔仁親王(スケヒト)が皇太子に立つ予定でした。
 これを嫌った白河天皇は、父後三条天皇も亡くなっていたので、中宮賢子所生の善仁親王(タルヒト)(1074~1107)(後の堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位してしまいました。
これには、亡くなった非常に愛してた賢子を悼む気持ちと、自らの直系に依る皇位継承を目指す気持ちがあったようです。
  写真では静かそうですが、前をひっきりなしに車が通ります
 
 第73代堀河天皇(在位1086~1107)はまだ8歳であり、摂政となった師実は完全な外戚ではない(賢子は養女)ので、実権は白河天皇が握り、ここに院政が開始されました。
 次いで孫を5歳ですが第74代鳥羽天皇として即位させ、続いてひ孫も5歳で即位させて第75代崇徳天皇にして、結局白河天皇は堀河・鳥羽・崇徳と三代にわたって「治天の君」として院政を敷いたことになります。
  制札の如く、成菩提院陵(ジョウボダイインノミササギ)(伏見区駐c浄菩提院町)です
 
 白河天皇は院政の間の長い権力保持によって、政権の独断や人事のえこひいき、浄土教への傾斜による多数の寺院の建立など、弊害も多かったようです。
このようなわがままな行動でもままならぬものとして、「賀茂の水・双六の賽・叡山の山法師」の「天下三不如意」の話は有名です。
  
 噂された、白河天皇ご寵愛の待賢門院璋子(ショウシ)(1101~1145)を孫の鳥羽天皇の皇后にして産まれた崇徳天皇は、実は鳥羽の子ではなく曾祖父白河の子であるらしいという話は、ゴシップ好きの私には嬉しい話です。
崇徳が産まれた時、父鳥羽は16歳、曾祖父白河は66歳、どちらの生殖能力も上限下限で可能ですよね!
  陵から振り返り、私が島に行ってる間に完成した京都高速道路仰ぎ見ます
 
 白河天皇火葬塚は、陵からは離れた金閣寺近くの金閣小学校の裏側、北区衣笠西馬場町の判りにくい路地の裏側にありました。
金閣小学校校門前の後朱雀天皇火葬塚を捜してる時に見つけた物で、京都市の西北にも火葬塚は集まっています。

       返事
花水木さん:静岡県の施設の対策は厳しいですね!
     GoToトラベルもGoToイートもなんか不公平感一杯ですね!
    こんなことに何兆円も使うなら、
    消費税を1~2年なくす方が、皆に公平で、
    購買欲も高まりますし、店もうるおい、全てが良くまわるような気がしますがね。

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