桜も終わり、1ヶ月ぶりぐらいの、忘れられたかもしれない天皇陵巡りに戻ります。
第29代欽明天皇は7人の妻に最大28人の子供を産ましていると書いて来ました。
その内皇后の石姫皇女(イシヒメノヒメミコ)は、箭田珠勝大兄皇子(ヤタノタマカツノオオエノミコ)・渟中倉太珠敷尊(ヌナクラノフトタマシキノミコト)・笠縫皇女(カサヌイノヒメミコ)の3人の子を産みました。
長男は夭折したので、第2皇子のヌナクラノフトタマシキノミコトが即位し、第30代敏達天皇(ビタツ)となりました。
敏達天皇は百済大井宮(奈良県桜井市・奈良県広陵町・大阪府河内長野市など諸説あり)に新しく宮を開き、在位14年48歳で亡くなり、河内磯長中尾陵(コウチノシナガノナカノオノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
陵は河内の、用明・推古・孝徳天皇や聖徳太子廟が集まっている近つ飛鳥にありましたが、判りにくい道を上って、峠にある作業所の横に、写真の参道を見つけました。
第30代敏達天皇の父方母方両祖父は親子である第26代継体天皇と第28代宣化天皇、両祖母は第24代仁賢天皇の娘同士の同母姉妹、故に父母はかなり血の濃い伯父と姪の関係になります。
この辺りから天皇家の血は、天皇の娘である皇女を妻にすることが多いので、濃すぎて混乱するぐらい判りにくくなっています。
写真、丘の上の道という感じの陵道を、少し上って行きます。
この陵道を直角に曲がると、急に森の中の小道のようになって、鳥居が見えてきました。
敏達天皇は最初の皇后である息長真手王(オキナガノマテノオオキミ)の娘廣姫(ヒロヒメ)との間に、押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノミコ)をもうけました。
皇后が薨去したため、次の皇后に後に推古天皇になる異母妹の額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ)すなわち豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)を迎え、駐c皇子他8人の子供を、又老女子(オミナゴ)に4人、菟名子(ウナコ)に2人と、計4人の妻に17人の子を産ませました。
この子供達のうち、廣姫との間に産まれた押坂彦人大兄皇子と菟名子との間の糠手姫皇女(アラテヒメミコ)の異母兄妹が結婚して産まれた敏達天皇の孫が、後の第34代舒明天皇(ジョメイ)になっています。
蘇我家の血をひく蘇我稲目の娘堅塩媛が産んだ豊御食炊屋姫は、敏達天皇との間に8人の子供をもうけていますが、その子供たちの家系は誰も天皇には成りませんでした。
第30代敏達天皇の母親は、第28代宣化天皇の皇女で第29代欽明天皇の皇后石姫皇女ですので、その墓はもちろん御陵で、以前29≠Qで紹介した磯長原陵、そこに息子の敏達天皇は追葬されて河内磯長中尾陵となり、親子でここに合葬されています。
500年中頃の敏達の時代は、大臣蘇我馬子(オオオミソガウマコ)と大連物部守屋(オオムラジモノノベノモリヤ)が仏教の受容をめぐって対立し始めた時代ですが、敏達天皇自身は仏教に好意的ではなかったようです。
返事
花水木さん:金の大吉、八坂神社だけではなく、
他の神社にも有るようですよ。
大雪男さん:セは混戦で、どこが強いのかまだわかりませんね。
そんなに昔の話ではなく、私の父とか叔父叔母など、兄弟が多く、いとこの結婚もあったらしいです。
しかし・・・昔は本当に多産でしたね。
家電も無くて、一日中家事に追われていたのでしょう。