北朝3代崇光天皇の第1皇子栄仁親王(ヨシヒト)(1351~1416)と御息所正親町三条治子(ミヤスンドコロオオギマチサンジョウハルコ)との間に、第2皇子として産まれたのが貞成親王(サダフサシンノウ)(1372~1456)です。
前回紹介したのは、第1皇子で兄の治仁王(ハルヒトオウ)(1370~1419)でした。
伏見の商店街から南へ、酒蔵のある辺りからも少し外れて、急に人通りが少なくなった桜の季節、伏見松林院がありましたが、門前までです
貞成は幼少時は他家(今出川家)で養育され、1411年40歳にしてやっと父伏見宮栄仁親王の下に迎えられ、元服しました。
5年後その父が亡くなり、同母兄治仁王が第3代伏見宮家当主になりましたが、数カ月後に急死したので、貞成が第3代当主になりました。
伏見松林院裏手に、自分自身は天皇には成れませんでしたが、息子が天皇に成ったので、太上天皇の称号も与えられた貞成親王の立派な陵を見つけました
元来崇光の系統は皇位に就かないと約束はさせられていましたが、同じ北朝の後光厳天皇系からは、いつまでも皇位を狙ってると恐れられていたのか、貞成が兄治仁王を殺したとの疑いを広められ、これは後小松院や4代将軍足利義持によって否定され、貞成は助かっています。
後光厳系のやや精神的に問題があった第101代称光天皇(1401~1428)(在位1412~1428)からは、自分の女を懐妊させたと密通の疑いをかけられたり、1425年には後小松院の猶子となって親王宣下を受けたので、父の後小松院とは元々仲が良くなかった称光天皇の怒りを買い、貞成親王は出家し、道欽入道親王(ドウキンニュウドウシンノウ)となりました。
写真は拝所正面
貞成親王は御息所庭田幸子(ニワタユキコ)(1390~1440)との間に、後に第102代後花園天皇に成る彦人王(ヒコヒトオウ)(1419~1471)や第4代伏見宮貞常親王(サダツネ)(1426~1474)をもうけていました。
そして称光天皇が崩御すると、北朝後光厳系には跡を継げる男子がおらず、念願かなってやっと北朝崇光系の貞成親王の息子彦人王が皇位に就きました。
息子後花園天皇治世の最初は、後小松上皇による院政でしたが、1433年後小松が崩御後は、貞成親王(道欽入道親王)は天皇の実父として、この辺りに伏見御所を造営し法皇として(後崇光院)太上天皇の尊号も受けましたが、表向きはこれを辞退しています。
墓所は立派な伏見松林院陵(フシミショウリンインノミササギ)(伏見区丹後町)に後崇光太上天皇陵と有りました。
御陵周囲は静かでしたが、少し運河の方へ歩くと、今年春の新型コロナ時代でも、それなりの花見客でにぎわっていました
返事
Toitenlabeeさん:どちらかと言うと私に出てるのは、
年寄りの疲れだけですかね。