第102代後花園天皇(1419~1470)(在位1428~1464)の皇子で、母は嘉楽門院藤原信子であった成仁親王(フサヒトシンノウ)は、母の身分は低かったのですが唯一の皇子だったので、第103代後土御門天皇(ゴツチミカド)(1442~1500)(在位1464~1500)として即位出来ました。
12人の天皇名が並ぶ深草北陵(フカクサキタノミササギ)(伏見区深草坊町)の制札アップです
典侍庭田朝子(ニワタアサコ)(1437~1492)との間に、後に第104代後柏原天皇になる勝仁親王(カツヒト)をもうけるなど、その他の妃との間にも数人の皇子女が出来ています。
方形堂の深草北陵です
後土御門天皇の治世は、1467年から1477年まで京都を舞台にした11年間の応仁の乱によって全く安定せず、この乱を避けるために、8代将軍足利義政の室町邸(花の御所)に父後花園上皇と共に移らざるを得なくなって、ここを仮御所として約10年間を過ごしていますし、全くの財政難から御所もぼろぼろ、朝議もできない状態になっています。
陵の塀の向こうには、お堂が見えるだけで、内側はわかりません
後土御門天皇の在位期間は36年と長く、これは古代の推古天皇以後は、昭和天皇(63年)・明治天皇(45年)・光格天皇(江戸時代37年)に続く4番目です。
しかし応仁の乱によって治世は迄Mされ続けたので、60歳近くで崩御された時は足利幕府も葬儀の費用が出せず、遺体は黒戸(クロド)(御所清涼殿北側の細い部屋)に納められたまま43日間捨て置かれたそうです。
その後は北朝系天皇の眠る深草北陵に葬られ、妃の朝子の御陵般舟院陵にも分骨所がありますし、月輪陵にも灰塚があります。
たくさんの名が並んでる月輪陵の制札には、御土御門以後続いて4人の天皇の灰塚ともありました
返事
Toitennさん:3回続けて行ったのは、人魚浜の「ごえん」です。
980円の定食目当てにサラリーマンも来てますので、昼は込みます。
北海道に行って名物ラーメンを食べるのは惜しいので、毛ガニを食べるように、
もう少し高いものを注文してます。
他は浜の端の「雅」もおいしいですし、市場の寿司屋さんも手ごろです。
商家の嫁さんがこれを読んで、他の店を紹介してくれたらよいのですがね。
花水木さん:これにもう一品来ました。
大雪男さん:秀吉の朝鮮出兵や関東軍の悪夢を思い出しますね。
プーチン、老害以外の何ものでもないですが、長期政権はダメです!
ロシア人民が引きずりおろしてくれるのを待つ以外ないでしょうね。