北朝天皇としては6代目の第101代称光天皇(1401~1428)(在位1412~1428)が、精神的にも肉体的にも弱く、たびたび危篤状態になって、その度に南朝方が勢いを増すので、くじ引きで室町将軍になった第6代足利義教(ヨシノリ)(1394~1441)は、後小松上皇(1377~1433)に次の天皇を早く決めるように急かしていました。
写真の制札のように、後花園はひいひいじいちゃん(高祖父)にあたる北朝初代光厳天皇と同じ陵に眠っていますし、ここは息子後土御門の分骨所でもあります
北朝方としては、称光天皇より3代さかのぼって長子にあたる北朝3代崇光天皇の子孫から人を選ばざるを得なくなり、称光天皇が崩御すると、崇光の皇子で皇位に就きたかった栄仁親王(ヨシヒト)(昨年9月参照)の息子伏見宮3代目貞成親王(サダフサ)(昨年10月参照)の第1皇子彦仁王(ヒコヒトオウ)を、後小松上皇の猶子として親王宣下のないまま9歳で即位させ、第102代後花園天皇(ゴハナゾノ)(1419~1470)(在位1428~1464)となりました。
陵印も山国陵と同じです
後花園天皇の父貞成親王も、一度は後小松上皇の猶子になって次の天皇になる準備をしていましたが、これは称光天皇の怒りに触れて出家させられていたので、後花園天皇の成立は崇光流の伏見宮家の念願成就で、喜んだとのことです。
これは明らかに、伏見宮家の子種の多さの勝利でしょうね。
京都の北の山の中、常照皇寺の横の道の参道を上って行きます
養父の後小松上皇が亡くなると、父貞成親王も天皇の実父として存在感を示すようになりましたが、嘉吉の乱(1441年)で足利将軍義教が赤松満祐(ミツスケ)に宴会の席で殺されたり、1443年禁闕の変(キンケツノヘン)では禁闕(皇居内裏)に後南朝方が押し入り、三種の神器の内剣と勾玉が奪われるという事件も起こっています。
近寄れない陵を仰ぎ見ます
女院藤原信子(ノブコ・シンシ)(1411~1488)との間に産まれた成仁親王(フサヒト)(1442~1500)に譲位し、上皇としてその直後に起こった応仁の乱(1467年ヒトノヨムナシ)の初期を生きた後、後花園は崩御し、遺言によって光厳天皇陵と同じ常照皇寺内の後山国陵(ノチノヤマグニノミササギ)(右京区京北井戸町)に葬られました。
分骨所は般舟院陵に、そして写真の火葬塚(上京区扇町)は大應寺境内にあって、今は堀川鞍馬口に面した高校駅伝などでもよくTV画面に映ってくる場所です。
返事
Toitennさん:私の城陽訪問が知れたら、
旗と幟の歓迎が待ってるので、
恥ずかしくて言えませんでした。
「糸八」新装されてましたね、上握り2800円になってますか!
昔は2000円しなかった気もしてますが。