父第97代(南朝2代)後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の第1皇子で、母はたぶん女御の勝子(ショウシ・カツコ)で、吉野山中で生誕したといわれてる寛成親王(ユタナリシンノウ)は、父後村上天皇の崩御の頃に第98代(南朝3代)長慶天皇(チョウケイ)(1343~1394)(在位1368~1383)として即位したらしいです。
その頃、南朝方の楠正儀(マサノリ)(正成の息子)の北朝帰参などで、南朝方は衰退の一途をたどっており、長慶天皇の業績もほとんど記録に残ってないため、そもそも即位したかどうかさえ不明でした。
1911年(明治44年)に南北朝正閏問題は、明治天皇の裁定により、南朝が正統とされましたが、その時でさえ長慶天皇は歴代天皇代数に入れられず、1926年(大正15年)にやっと長慶天皇は皇統加列に入ったぐらいです。
このだだっ広い御陵に至っては、1944年(昭和19年)(私の生まれる4年前ですよ)に死後550年たってからここに決定されたようです。
こんな天皇ですから、皇妃や子供も不明で、1383年頃に同母弟といわれる煕成親王(ヒロナリ)に譲位しましたが、その煕成親王が第99代後亀山天皇になって南北朝合一後京都に帰還した時も、長慶上皇は同行しなかったようです。
京都で亡くなったのか、吉野や河内で亡くなったのか判りませんが、京都嵐山にこの嵯峨東陵(サガノヒガシノミササギ)(右京区嵯峨天竜寺角倉町)が造られたわけは、息子承朝が父長慶天皇を弔うために開創した慶寿院の、ここが跡地だからだそうですよ。
返事
Toitennさん:日曜日朝は、
今季初のうっすら雪化粧でしたね。
大雪男さん:恐縮です。
ライトアップは、なんでも綺麗にしますね。