島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝4-1後光厳天皇

2021-10-24 | 天皇陵巡り
 
 北朝初代天皇(第97代天皇)の光厳天皇(1313~1364)(在位1331~1333)と正親町三条秀子(1311~1353)との間の第1皇子は北朝3代崇光天皇(1334~1398)(在位1348~1351)で、しばらくはこの系統をずっと書いて来ましたが、第2皇子同母弟が今回の弥仁親王(イヤヒトシンノウ)です。
弥仁親王は、幼少時は祖母になる第93代後伏見天皇女御広義門院西園寺寧子(1292~1357)に後見されていましたが、通例のようにいずれは仏門に入る予定でした。
  写真は、師団街道沿いに立つ深草十二帝陵の石柱です
 
 1351年皇統が一時的に南朝に統一された正平一統が成立、北朝天皇は廃されましたが、1352年には(南朝2代)第97代後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の意向で、父光厳・叔父光明・兄崇光の3上皇と廃太子された直仁親王が大和の賀名生(アノウ)に拉致幽閉されました。
弥仁親王も拉致する方向で捜されましたが、上手に隠れたそうです。
  写真は、JR奈良線沿いにある深草北陵(深草十二帝陵)
 
 北朝方の足利幕府(2代義詮(ヨシアキラ))は、このままでは旗印も無くなり朝敵にも成るし、京都の公家たちも仕事が無くなるので、寧子を女だてらで皇族生まれでもないのに、強引に治天の君にして、三種の神器も無いのに、15才の弥仁親王を北朝第4代後光厳天皇(ゴコウゴン)(1338~1374)(在位1352~1371)として即位させました。
 三種の神器も無く天皇に成るのは、後鳥羽・光厳・光明に続いて4人目になります。
 
 後光厳天皇は沢山の妃に男14人・女2人の沢山の子を産ませてますが、典侍藤原(広橋)仲子(崇賢門院)(1339~1427)が産んだ第2皇子緒仁親王(オヒト)が後の北朝第5代後円融天皇(1359~1393)(在位1371~1382)です。
  写真は、12人の持明院統系天皇(南朝2人)と栄仁親王(ヨシヒト)の名が並ぶ深草北陵制札です
 
 天皇になってからも後光厳天皇の周りは安定せず、1361年には南朝軍によって京都を奪われ、岐阜や滋賀県にまで逃げたこともあったようです。
1357年には同母兄崇光上皇も京都に帰ってきて、皇位を自分の息子に戻すように迫られました。
それでもやっと安定して来た足利幕府で共に苦労した足利義満(1358~1408)(3代将軍1369~1395)の応援もあって、1371年緒仁親王に譲位し、院政を敷くことも出来ましたが、その後数年で疱瘡で亡くなり、深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られています。

         返事
Toitenlabeeさん:カンガルーはいませんよ。

コメント (3)
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