島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

51-1平城天皇

2019-09-26 | 天皇陵巡り
 
 第49代光仁天皇が思いもかけなかった天皇に成ったために、その子桓武天皇は親王になり、光仁天皇の最初の皇太子であった桓武の異母弟他戸親王が772年に皇太子を廃されたために、773年には桓武は光仁天皇の皇太子にまでなりました。
その翌年に父桓武と母藤原乙牟漏から生まれたのが安殿親王(アテシンノウ)です。
 
 安殿親王7歳の時に、父は即位し第50代桓武天皇となり、その皇太子は早良親王でしたが、長岡京遷都のどさくさに起こった藤原種継暗殺事件で、早良親王(崇道天皇)は廃太子となり死去(暗殺)したので、785年に12歳で皇太子となりました。
 
 皇太子妃として藤原帯子(フジワラノタラシコ)がいましたが、子供はできずに安殿親王が20歳の時にはもう亡くなったので、以後は誰も皇后にはしていません。
 藤原種継の娘で叔父である藤原縄主(フジワラノタダヌシ)との間に5人の子をもうけていた薬子(クスコ)、その長女を後宮に入れましたが、安殿親王は後宮に入った娘より付き添ってきたその母親の熟女であった薬子と良い仲になったようで、父桓武の怒りに触れてその仲は裂かれました。
 
 そして父桓武が崩御して、安殿親王は平安京で初めて即位し、第51代平城天皇(ヘイゼイ)(774~824)(在位806~809)となりました。
 天皇に成った翌年には、父桓武の寵愛を受けていた異母弟伊予親王を、平城天皇自身の伊予嫌いに付け込むようにした、藤原式家の仲成・薬子兄妹の策謀に、北家の内麻呂も便乗し、南家の雄友(オトモ)の追い落としを兼ねた「伊予親王の変」(8月のこのブログ50-4伊予親王を参照)が起こりました。
 
 平城天皇は律令制の再建にはある程度の行政能力も示しましたが、性格は猜疑心が強く執念深かったようで、遠ざけられていた薬子を再び手元に呼び戻し、夫の縄主は九州太宰帥(ダザイノソツ)に栄転という形で遠ざけて、再び二人で不倫ごっこをしたようです。
(今なら、若社長が専務夫人と良い仲になり、年上の専務をアメリカ支店長に栄転させて、留守の間に二人で・・・・。)
 
      平城京跡にはこんな立派な大極殿が再建されています
 元々の病弱か性格か早良親王や伊予親王の崇りを恐れたのか、わずか4年で12歳年下の同母弟第52代嵯峨天皇に譲位し、太上天皇として平城京に帰ってしまいました。
 しかし再び元気になって、仲成・薬子兄妹にもそそのかされて、再び天皇に戻る動きをし、一時は平安京と平城京「二所朝廷」と呼ばれるようになりました。
そしてとうとう810年「薬子の変」を起こし決起しかけましたが、嵯峨天皇側に押されて、仲成は射殺、薬子は毒を仰ぎ鎮圧されました。
平城天皇自身は出家しただけで済みましたが、こうして藤原式家も没落し、以後は冬嗣の北家の独壇場と成りました。
 
 再建された大極殿から住宅越しに見える小山が平城天皇陵です。
平城天皇は変の15年後に崩御し、ここ平城京のすぐ近く揚梅陵(ヤマモモノミササギ)(奈良市佐紀町)(元は市庭古墳と言う前方後円墳を削って円丘にしたもの)に葬られました。
 私たちは日本史で「薬子の変」と憶えましたが、最近は「平城太上天皇の変」とも言うらしいです。
  
土曜日、日本が奇跡を起こすことを祈ってます!!!

      返事
大雪男さん:「きずつない」標準語?
    気を使ってもらってすみません、と言う時に使いますよね。
     大リーグから野手として大谷君を獲りますかね。
     大雪男さんのブログで教えてもらったNHKBS五島列島トレッキング観ました。
    大瀬崎灯台はいつ見ても良いですね!!
    七ツ岳は結局行ってませんが、私では無理だったでしょうね。
    野崎島の王位石(オエイシ)、実物見たかったですが、これも無理だったでしょうね。
    TVでは小値賀島からも見ていたので、せめてそれぐらいは行って見てみたいです。
花水木さん:男の私でも言うので、標準語では?
     美人も最近の4K・8Kでアップは辛いでしょうね。
     恐竜と一緒に住む世界はかんべんですね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする