島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

45-4聖武天皇皇子安積親王

2019-03-13 | 天皇陵巡り
      
 京都府の南端、和束町(ワツカチョウ)は茶の産地でもあります。
この茶畑の丘の上に、和束墓(ワツカノハカ)(京都府相楽郡和束町)があり、ちょっと分かり難かった入り口から登って行きました。
     
 安積親王(アサカシンノウ)(728~744)は、聖武天皇と県犬養広刀自(アガタノイヌカイノヒロトジ)との間に生れました。
同母姉に井上内親王と不破内親王がいますし、前回の1歳にならず亡くなった基王は、数カ月だけ年上の異母兄ですし、同じく阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)も異母姉です。
     
 茶畑内の、天空へ延びていくような石段を登って行きます。
 基王が亡くなって、聖武天皇の息子は安積親王一人になったのですが、藤原氏に近い光明子が産んだ阿部内親王が、女ですが20歳で立太子し、その時10歳の男子の安積親王は据え置かれました。
     
 安積親王は難波宮に行啓の際に脚気になり、2日後帰った恭仁京で二十歳にならずして亡くなりました。
上流階級で豊かな食生活だったと思われる皇子が、脚気と言うのもちょっと不自然な気がしますし、あまりにも急速な悪化も、しんどいのをよほど長く我慢していたのか、疑問です。
藤原仲麻呂(藤原不比等の孫)に毒殺された説も、それなりにうなづけます。
    
 制札には、読みにくいですが、聖武天皇皇子安積親王と書いてありました。
兄弟で前回紹介した基王墓の制札には、聖武天皇皇太子だけで、名前がなかったのはなんでなんでしょうね。
   
 この和束墓は、正式名太鼓山古墳(タイコヤマコフン)ですが、なぜこんな田舎にとも思いましたが、意外と恭仁京から近いです。

      返事
花水木さん:私の子供は二太郎一姫?ですが、
    妻は「あんたが養育しなかったので、良い子になった」
    と言います。
     確かに写真を拡大すると、
    私の爪先(ツマサキ)は上がってますね?!
    多分私は、いつも妻を先に前に立ててあがめているので、
    妻先(ツマサキ)が上がってるのですよ!
     蟹を食べる時、全員が無口になりますね。
    タカアシガニの身が取れやすい程大きいのは、良いですね。
 

コメント (1)
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