島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

37-1斉明天皇

2018-09-04 | 天皇陵巡り
  風が強い台風が過ぎ去りましたが、仕事もなんとか行って帰れましたし、家も大丈夫です。
 2Kmぐらいしか離れてない息子の家は昼からずっと停電らしいですが。

     
 弟の第36代孝徳天皇が、皇太子の中大兄皇子などの仲間に離反されて寂しく亡くなった時、有馬皇子という孝徳天皇の息子は対立候補としていましたが、もう年齢的にも30歳になり、誰が考えても次の天皇は中大兄皇子(天智天皇)だと思う状況でした。
しかしながら、噂の?道ならぬ同母兄妹恋を世間が許さなかったかどうかは別にして、次の天皇はあっと驚く、以前譲位した天皇がもう一度天皇位に返り咲くという重祚(チョウソ)と言う手を使って、前第35代皇極天皇が第37代斉明天皇(サイメイ)(在位655~661)として飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位しました。
    
 2回目の天皇時代、斉明天皇は石造りの大規模造営を好んだようで、運河を掘ったり、大きな石を運んだりして、写真の飛鳥の酒船石遺跡(サカフネイシイセキ)も作っています。
 有馬皇子にこのような事業を批判するように仕向けた蘇我赤兄(ソガノアカエ)でしたが、彼の裏切りに依って、孝徳天皇の息子悲劇の有馬皇子(アリマノミコ)の謀反は失敗に終わり、殺されました。  
      
 660年百済が滅亡すると、わずかに残った臣下が日本に救援を求めてきたので、661年斉明天皇(その時61歳?68歳?)自らが指揮をとり、子や孫の中大兄皇子・大海人皇子・大田皇女・鸕野讃良皇女などと共に九州へ進軍しました。(女性も含めて一家中で進軍したのは、飛鳥に残ってるのも危険だったのでしょうか?)
 しかし斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)(福岡県朝倉市)で崩御してしまったので、全軍は引き上げ、斉明天皇は越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)(奈良県高取町)に、同母兄妹恋で苦しんだ?娘の間人皇女と、禁断の恋で産まれたのかもしれない?最愛の孫の建王と共に葬られました。(前回36≠Q間人皇女参照)
 重祚してるので、陵印はてっきり皇極天皇・斉明天皇と彫ってあると思っていましたが、よく見ると斉明天皇・孝徳天皇皇后(間人皇女)でした。
     
 この御陵には途中大田皇女の墓もあって、石段200段以上登ってたどり着きました。
御陵は車木ケンノウ古墳と言う円墳ですが、1周ぐるっと石柵で囲まれていて、1周回れるはずですが、このビニールシートに阻まれてしまいました。
土木工事の好きな女帝の陵なので、早く治してあげて下さい。

    返事
花水木さん:私の若い時は、
    世間でのイギリスの地位はもっと高かったように思いますが。
     久本さんの福江島は観ました。
    五島の海や湧水とか、行ったところばかりなので、
    私は本当に懐かしかったですよ。
    日村さんの夕方の食番組も観ました。
    奈留からも良く食べに行った望月のステーキも懐かしかったですが、
    私はあんなに高いのを食べず、もっと安いのを食べていましたが。

コメント (1)
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