島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

32-1崇峻天皇

2018-06-10 | 天皇陵巡り
  
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君との間に産まれた泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)は、欽明天皇の12番目の子供です。
その異母兄第31代用明天皇が早くに亡くなると、同母兄穴穂部皇子(アナホベノミコ)が物部守屋と謀って皇位を狙いましたが、蘇我馬子と豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)は穴穂部皇子を殺し、その勢いで物部氏も滅ぼしてしまいました。
     
 こうして蘇我・物部の積年の対立にも終止符が打たれ、泊瀬部皇子が倉梯柴垣宮(クラハシノシバガキノミヤ)に即位し第32代崇峻天皇(スシュン)になりました。
 近鉄桜井駅で自転車をひらき、押坂の舒明天皇陵に寄ってからここに到りました。
    
 崇峻天皇は大伴糠手(オオトモノムラジヌカテ)の娘小手子(コテコ)を妻として蜂子皇子(ハチノコノミコ)と錦代皇女(ニシキテノヒメミコ)をもうけ、また蘇我馬子の娘河上娘(カワカミノイラツメ)や物部守屋の妹も妻に迎えています。
 崇峻天皇陵の道標から坂を少し下ると、崇峻天皇陵の倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)が見えてきました。
    
 蘇我馬子の後押しで、それほど皇位継承順位が高くない崇峻が天皇になったのですが、即位してからは二人の仲は離れて行き、猪を貰った崇峻天皇が思わず「この猪のように首をはねたい人がいる」というようなことをつぶやいたため、これを聞きつけた馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って崇峻天皇を殺してしまいました。
 天皇暗殺という一大事件は、正史である日本書紀にもはっきり書かれているのに、その後のことはうやむやになったぐらい、当時の蘇我馬子の力は強かったということでしょうか。
    
 その後の話として、下手人の東漢直駒は崇峻天皇の妃馬子の娘河上娘を奪って妻にしたため馬子に殺され、なんかケネデイ暗殺後の話に似ています。
 また息子の蜂子皇子は聖徳太子に依って東北に逃がされ、羽黒三山の開祖になりました。(宮内庁治定の墓もあり)
その息子を追って錦代皇女と共に東北に向かった小手子は、途中娘の錦代皇女を亡くし、福島にとどまって当地で養蚕の技術を広めた後、入水自殺をしたという、小手姫伝説も福島には残ってるようです。
   
 ちょっと悲劇的な感じがする崇峻天皇ですし、残すところ推古天皇だけになった古事記でもたった三行ぐらいしか記述されていませんが、その陵、円丘のようですが、水の流れる音が聞こえる周囲の様子や、陵自体のたたずまいから、私は好きな御陵です。
   
 ただし、そこから自転車ですぐに行けたこの巨大な円丘の赤坂天王山古墳(アカサカテンノウザンコフン)が、江戸時代には崇峻天皇陵とされていて、築造年代もあってるようですし、有名な藤の木古墳も崇峻天皇陵であるとの説もあります。

    返事
コメント無く寂しい思いをしております、皆さまどうかよろしくお願いいたします。

コメント (1)
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