島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

伝山背大兄王墓の西宮古墳

2018-06-06 | 天皇陵巡り番外
   
 聖徳太子と蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に産まれた山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)、すなわち第31代用明天皇の孫にあたりますが、聖徳太子像としてよく紹介されているこの絵の向かって右の童子です。(この見慣れた聖徳太子像も、最近は別人の説もあります)
   
 奈良県の北西部、生駒山系と矢田丘陵に挟まれるように、「ちはや振る神代もきかず竜田川・・・」の小倉百人一首でも有名な竜田川が流れる谷合に、平群町(ヘグリチョウ)があります。
町の案内看板には、平群の由来は、古代に都のあった奈良の桜井や飛鳥方面から見て、奈良盆地の北西の対角地域としての辺国(ヘグニ)がヘグリ(平群)になったと書いてありました。
   
 平群には天皇陵巡りの長屋王墓などがあるので、今回は近鉄電車で平群まで行って、その辺を歩きました。
 平群中央公園にあるこの西宮古墳(ニシノミヤコフン)伝山背大兄王墓は、一辺36ⅿの方形墳で、7世紀中頃から後半の築造と考えられています。
   
 石室は開いていて、その中にも入ることが出来るのです。
山背大兄王墓は、宮内庁によって斑鳩の法隆寺近くの富郷(トミサト)陵墓参考地(岡原古墳)が、そうであると定められていますが、そこは古墳時代中期の古墳のようなので、年代的にも間違いのようです。
そこにも行かなければならないのですが、わがままな私の都合でそこはやめて、年代的にも合致するこちら西宮古墳の方に足を運びました。
     
 京都を山城の国と言いますが、これは山背(ヤマシロ)が山城になっただけで、元の意味は平城京から見て奈良山の後ろ(背)にある地域からその名が産まれています。
 聖徳太子一族が住んでいた奈良斑鳩から見たら、矢田丘陵の後ろ側にここ平群はありますので、平群の西宮古墳に葬られたから、逆に山背大兄王という名が付いたかもしれない。
そう思うと、西宮古墳の方が真陵の可能性がますます高くなるのではないでしょうか。
    
 あまりこういう暗い狭い場所に入るのは苦手の方なのですが、石室の一番奥まで入って入口の方に向き直りました。
 くりぬき式の家形石棺の蓋はなくなっていますが、兵庫県産の竜山石(タツヤマイシ)(昔奈留高校の軟式野球部国体出場の応援に島から行った時に、寄った石の宝殿のあった辺りで採れる凝灰石)で出来てるそうで、なんかやけに綺麗で発泡スチロールで出来てるような感じさえしました。
    
 石棺の縁に穿ってあった盃状穴(ハイジョウケツ)らしき窪みを見つけました。
私がよく読んてるブログ「晴徨雨読」で、ジョンノビさんが盃状穴のことを調べています。(これを書くのが分かってたように、じょんのびかあさんから前回コメントが入ったのには驚きです)
これを見つけたことで感激したこともあるし、次の天皇の有力候補であったのに、蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄王の墓の中にいるので、なんか霊気を感じたのか、浮ュなってきて早々に石室から這い出てきました。

    返事
花水木さん:「ちりとてちん」出演の吉弥さん、
    上手なのと性格で、関西落語会では人気ものです。
     この苺パフェ、下はコ―ンフレークばかりなので、それほど美味しくはなかったです。
じょんのびかあさんさん:お元気ですか!
     またN君主催のミニ同窓会にも顔出してください、皆喜びますよ。
      丁度今回盃状穴なので、この写真じょんのびさんにメールで届いていましたか?
商家の嫁さんさん:これまたお久しぶりですね!
    ブログ「Blue~」で隅に時々写ってるお姿は拝見?してますよ。
     小浜はかなり頻回に行くので、ぜひ美味しい店をメールなりこのコメントで教えて下さい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする