私の天皇陵巡りで一番有名と思われる、誰もが知ってる聖徳太子の順番まで来ました。
聖徳太子は皇太子止まりで天皇にもなっていず、その子供も滅ぼされた為に、今の天皇家とは繋がっていません。
父第31代用明天皇とその異母妹(異母妹と言っても母同士は姉妹ですのでかなり血の濃い)穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)との間に産まれた4人の子の一人、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)が聖徳太子その人です。
キリスト伝説と同じく、厩の前で産まれたのでその名があると言われていますし、10人の話をちゃんと聞き分けたということで 豊聡耳(トヨトミミ)の別名もあります。
血が濃いことが良い方に出た天才という例でしょうね。
第30代敏達天皇と第33代推古天皇との間に産まれた菟道貝蛸皇女(ウジノカイタコノヒメミコ)を娶りましたが、二人の間には子供はなく、蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)他4人を、膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)との間に8人の子供を、また菟道貝蛸皇女の弟である尾張皇子の娘橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)との間には2人の子供をもうけました。
48歳で亡くなって、叡福寺北古墳(エイフクジキタコフン)と言うこの磯長墓(シナガノハカ)(大阪府太子町)に葬られました。
この磯長墓は叡福寺と言うお寺の中にあって、拝所には賽銭箱もありますし、線香を立てるつぼもあったり、門には菊の御紋も付いていますし、石室入り口であるこの正面には御霊屋(オタマヤ)と言われる覆屋まで建っています。
又、制札には、推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いてありませんが、母であり第31代用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女と、妃であって本人の1日前に死んだ膳部菩岐々美郎女との3人で入ってる三骨一廟の可能性が高いと推定されています。
直径54ⅿ高さ7.2ⅿの円墳であるこの磯長墓の周りには、2重にずっと結界石と言う梵字(ボンジ)が刻まれた石柱が並べられています。
その内側の石柱は空海の寄進と伝えられてるそうです。
ある先生の説によると、蘇我氏系の墓は方墳で、反蘇我氏系の墓は円墳と言われてますが、どう考えても蘇我氏系の聖徳太子の墓が円墳と言うのはこの説に合わず、これがこの説の欠点だそうです。
でも、山背大兄王など聖徳太子の次の世代は、その蘇我氏に滅ぼされているので、この磯長墓の形はこのことを暗示してるのかもしれません。
父第31代用明天皇が薨去した時はまだ14歳で若すぎましたし、蘇我馬子と共に物部氏を滅ぼし、第32代崇峻天皇が暗殺された時も20才で、叔母の第33代推古天皇(592年即位)の下で皇太子として摂政をしたのみです。
594年;仏教(三宝)興隆の詔(ミコトノリ)
603年;人材登用をはかる冠位十二階を定める
604年;有名な17条憲法制定
太子町のマンホールの蓋にも「和を以って貴し・・・」
607年;小野妹子などを遣隋使に
などなど、歴史で学んだり、お札でありがたがったりした聖徳太子ですが、最近はその実在さえ否定する説もあるようです。
返事
花水木さん:真陵;本当に名前の本人が眠ってる御陵と理解してますが、
違うかも?