父親は第24代仁賢天皇、母親はその皇后で第21代雄略天皇の娘で第22代清寧天皇の同母姉である春日大娘皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)、その間に産まれたのが 手白香皇女(タシラカノヒメミコ)です。
その陵は山辺道(ヤマノベノミチ)から少し外れて山の方に、なんの案内看板もなく、柿畑?の中の畑道を抜けた先にありました。
*余談ですが、母親の春日大娘皇女は雄略天皇と采女が一夜で身籠って生まれた子供です。
それ故雄略天皇は自分の子であるかどうか疑いましたが、一夜のうちに7度も召した(そんなことをしたら太陽が黄色く見えますよ)と聞かされた家臣は、「身籠りやすい人は褌が体に触れただけでも身籠ります」と述べたので、納得したそうです。?
陵の正式名 西殿塚古墳(ニシトノヅカコフン)(奈良県天理市)は、大和古墳群の中で最も高い所にある、全長230ⅿの大きな前方後円墳ですが、この写真のように遠くから見ると自然の山にしか見えません。
第26代継体天皇は、それまでの仁徳王朝の天皇達からはかなり離れた系統から来たので、たくさんの妃や子供たちもいましたが、なんとか残っていた仁徳系統の女性である手白香皇女と結婚して、元の政権とも深く結びつこうとしたのでしょうね。
そして生まれたのが、天国押波流岐広庭命(アメクニオシハルキヒロニハノミコト)で、異母兄の第27代安閑・第28代宣化に続いて第29代欽明天皇になり、女系ですが仁徳朝の血統がわずかに残されました。
拝所は柿畑?を抜けた所に、静かに有りました。
継体天皇皇后手白香皇女の衾田陵(フスマダノミササギ)と宮内庁は治定していますが、この古墳は周囲の発掘調査で出土した初期埴輪から見て3世紀後半に出来たようで、手白香皇女の産まれた5世紀後半とはかなりの隔たりがあります。
衾田陵は高い所、奈良盆地の東の山すそにあるため、天理や橿原の方も見渡せる眺めの良い所です。
夫の継体天皇陵は大阪の茨木ですが、妻の手白香皇女の陵は夫の墓からかなり離れた、たぶん実家に近い奈良にあるのも、手白香皇女からみたら婿養子状態であったかもしれない継体天皇の姿を今に伝えているのかもしれません。
返事
花水木さん:私の駄文を3回も読んでいただいて光栄です。
熟読するとアラが目につくので、私の文はさらっと読み流していただいて、
コメントいただければ幸いです。