弟の顕宗天皇が亡くなった後、その兄であるオケノキミは大和の石上(イソノカミ)に広高宮(ヒロタカノミヤ)(奈良県天理市)を造って、そこで天下を治め第24代仁賢天皇(ニンケン)になりました。
古事記はこの第24代から最後の第32代推古天皇までは、短い文で子供や陵のことを記述するだけで、間違いもありますし、そろそろ日本書紀も編集されはじめたので、詳しい話はそれにゆだねるのか、もう稗田阿礼(ヒエダノアレ)も太安万侶(オオノヤスマロ)も疲れてきたのか、尻すぼみになっています。
天皇陵の駐車場は、無断駐車が多くなってきたのか、ほとんどがこの様に鎖で閉鎖されているところが多くなっています。
車はもう少し向こうの広い所に停めて、なにもない駐車場から仁賢天皇陵の参道を見てる写真です。
仁賢天皇は父の仇でもある第21代雄略天皇の娘であるにもかかわらず、春日大郎女(カスガノオホイラツメ)を妻として、1.高木郎女(タカキノイラツメ)2.財郎女(タカラノイラツメ)3.久須毘郎女(クスビノイラツメ)4.手白髪郎女(タシラガノイラツメ)5.小長谷若雀命(ヲハツセノワカクサノミコト)6.真若王(マワカノミコ)を産ませ、糠若子郎女(ヌカノワカゴノイラツメ)を妻として、7.春日山田郎女(カスガノヤマダノイラツメ)を産ませ、計7人の御子がいたことになります。
このうち5.のヲハツセノワカクサノミコトが次の第25代武烈天皇になっています。
陵道はアパートの間を縫って続きます。
雑然とした畑と倉庫の間から拝所が見えてきました。
古事記では、その陵の名も書かれていません。
日本書紀では、微妙に子供の名前も数も変わっていて、皇子は一人になっていますが、それでも3人の皇女が継体天皇系の皇后になって、かろうじて女系として仁徳系が未来に繋がっています。
仁賢天皇は在位11年にして50歳で、宮があった奈良県から遠く離れたこの埴生坂本陵(ハニュウサカモトノミササギ)(大阪府藤井寺市)に葬られています。
すぐ横には民家の壁もある拝所と陵ですが、周濠も残っていました。
古市古墳群に属する陵墓も、残るは安閑天皇陵のみになりました。
半分都会で半分田舎のようなこの辺りは、どっちつかずでなかなか微妙な地域です。
看板と書いて来ましたが、正しくは制札(セイサツ)と言うそうです。
返事
花水木さん:拝所を撮らなければならないし、
制札も入れて、陵印も一応並べると、皆がほぼ同じになりますね。
変化を考えているのですが、花水木さんのリクエストに応えるには力量不足です。
その中でなんとか工夫していきますので、見捨てないようにお願いします。