島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

23≠P顕宗天皇

2017-12-15 | 天皇陵巡り
  
 さて、久しぶりの天皇陵巡りなので、少し前のブログを思い出して下さい。
第21代雄略天皇は、伯父である第17代履中天皇の息子、すなわち自分の従兄弟である市辺押磐皇子(イチノベノオシハオウジ)を射殺して、飼い葉桶につめて埋めてしまいましたね。
殺された市辺押磐皇子の子供二人、オケノキミとヲケノミコトはすぐに播磨の国に逃れて、馬飼・牛飼に身をやつして暮らしていました。
   
 播磨の長官だった小盾(ヲタテ)が新築の家の宴に招かれた時に、そこにいた少年二人が舞い踊って、自分たちが市辺押磐皇子の子供であることを告げました。
いわゆる貴種流離譚(キシュリュウリタン)の話は、ここから始まります。
   
 二人が見つかった時、古事記ではもう先代の第22代清寧天皇は死去していて、市辺押磐皇子の妹とも娘とも書かれている17≠R飯豊王が天下を治めていて、これを喜んだと書かれています。
また日本書紀では、清寧天皇は生きていて、喜んでこの二人を宮中に迎い入れたと書いてあります。
 その後二人は互いに譲り合った後に、兄は弟が積極的に名乗り出たから今があるのだと、弟に天下を治めるように言いました。
 こうして弟のヲケノイワスワケノミコトは、近飛鳥八釣宮(チカツアスカノヤツリノミヤ)(奈良県明日香村)を都として即位し、第23代顕宗天皇(ケンゾウ)となりましたが、子供はできませんでした。
   
 顕宗天皇は殺された父の遺骨を捜し当てて、滋賀県の蚊屋野(カヤノ)に共に殺された舎人との双墳の墓を作った話は、17≠Q(9月17日)で紹介しています。
 また父を殺した第21代雄略天皇を恨んで、その御陵を破壊しようとしましたが、兄に諭されて、その陵の片隅の土を少しだけ削るだけにしたそうです。
   
 顕宗天皇は在位8年、38歳で崩御し、傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノオカノミナミノミササギ)(奈良県香芝町)に葬られました。
 この顕宗天皇陵は、交通量の多い国道168号線のすぐ横にありました。
近くの喫茶店に車と家内を置いて、少し歩いてこの陵に参拝しています。
 ということで、1ヵ月ぶりの天皇陵巡りに帰ってきましたが、また花水木さんに怒られそうな同じような写真になりましたよ。

   返事
花水木さん:高校修学旅行は夜行列車で鹿児島まで行きました。
    阿蘇がススキだらけだったこと、
    前に座った同級生のかわいい女子のスカートが、風で思い切りめくれ上がったこと、
    夜中の岡山駅ホームでかけっこをしたこと、
    ぐらいしか覚えていませんね。
大雪男さん:源五郎丸さんは一時滋賀県でスメ[ツ店をやっていた記憶があります。
    黒川温泉も外国人のぶらぶら歩きが多かったですよ。九州の観光地はどこもそうですね。
    久留米ラーメンではなく熊本ラーメンでったので、あっさりでした。
和さん:本日、茨木から高槻へ古墳巡りで歩きました。
    和のブログも3カ月空いてますよ!もう少し書いてください。

コメント (1)
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