先代の仁徳天皇と磐之媛命との間に産まれた子供は、大江之伊邪本和気命(オホエノイザホワケノミコト)・墨江之中津王(スミノエノナカツミコ)・蝮之水歯別命(タヂヒノミズハワケノミコト)・男浅津間若子宿禰命(ヲアサヅマノワクコノスクネノミコト)の4人です。
4人の長男のイザホワケノミコトが、仁徳天皇亡き後まだ難波の宮殿にいた頃、次男のスミノエノナカツミコに宮殿に火を付けられて殺されそうになりましたが、なんとか大和へ逃れたそうです。(日本書紀では、自分の妻にしようとして、弟のスミノエノナカツミコを使者にして呼びに行かせましたが、その娘の美貌に惑わされた弟に略奪されたことが、この事件の発端になったとも書いてあります)
疑心暗鬼になったイザホワケノミコトは、三男のミズハワケノミコトに「お前も疑わしいので、忠誠心があるなら次男のスミノエノナカツミコを殺せ」と命じました。
長男の命令で次男を殺す羽目になった三男は、次男の家臣を煽動して、厠に入っていたスミノエノナカツミコを矛で刺殺させました。
その家臣とは栄転の約束はしていましたが、主君を裏切るような家臣を信じることは出来なかった三男のミズハワケノミコトは、自らの手で栄転の宴会中に主君を裏切った家臣を殺してしまいました。
かくして三男は長男の信を得て、次の皇太子にたてられました。
履中天皇記は、ほぼこのスミノエノナカツミコの乱の話で埋め尽くされていますが、こうしてイザホワケノミコトは大和に磐余稚桜宮(イワレノワカザクラノミヤ)⦅今の奈良県桜井市⦆を設けて、第17代履中天皇(リチュウ)として天下を治めました。
天皇はクロヒメノミコトを妻として、市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)・御馬王(ミマノミコ)・飯豊郎女(イヒトヨノイラツメ)をもうけています。
在位6年で64歳で崩御し、百舌鳥耳原南陵(モズノミミハラノミナミノミササギ)に葬られました。
ここは父の仁徳天皇の陵と建て並びに隣接した陵で、日本第3位の大きさの前方後円墳の上石津ミサンザイ古墳(カミイシズミサンザイコフン)で、元々は二重の濠があったそうです。
返事
花水木さん:家内も「ボーカリスト」で徳永さんのファンになり、
島にもMDを作って持ってきてくれましたが、60代になっても好きなようです。