三重県亀山市は、東海道亀山宿で栄えた城下町で、有名な亀山ローソクやAQUOSで一時は世界的になったシャープの亀山モデルの工場があった所です。
第2名神高速が出来て、京都からも行き易くなりましたが、そこの能褒野神社(ノボノジンジャ)を訪ねます。
左へ行けば日本武尊(ヤマトタケル)の墓へ、右の鳥居は明るい林に囲まれた能褒野神社の鳥居です。
神社自体は明治以後に出来た、それほど由緒のある神社ではないですが、ご祭神は12-1景行天皇と12-2播磨稲日大郎姫との間に産まれたヲウスノ命、すなわち大英雄の日本武尊です。
先ほどの道標に従ってぐるっと回っていって、最後かぎ状の坂道を曲がると、第12代景行天皇皇子日本武尊の能褒野墓(ノボノハカ)です。
ここは全長90ⅿ・高さ9ⅿの4世紀後半の前方後円墳の能褒野王塚古墳(ノボノオウツカコフン)で、明治まではあまり日本武尊の墓とは思われてなかったようです。
父の景行天皇記のほとんどを占めて記されている、息子の日本武尊の話の発端は次の如くです。
父の景行天皇は上の息子大碓命(オオウスノミコト)が食事の席に出てこないので、弟の小碓命(ヲウスノミコト)に、兄を呼ぶように命じました。
それでも兄が出てこないので、ヲウス命に尋ねると、「手足をもぎ取ってバラバラにし、薦に包んで捨てました」と平然と答えたそうです。
父の景行天皇は、優しそうな少年がこんなことをするのかと、行く末を恐れて、地方の征伐に行かせるようにしたそうです。
ここから日本武尊の武勇伝は始まりました。
先ずは九州の熊襲(クマソ)退治を命じられたヲウス命は、叔母のヤマトヒメから貰った衣装を身に付けて女装し、クマソタケルの宴会に潜り込みます。
宴たけなわになった頃に、酔って無防備になったクマソタケル兄弟を刺殺するという、ちょっとひきような手で退治されたクマソタケルは、それでもあなたは強いのでと、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と称えたそうです。
その後の話は次回に又続きます、なんせ日本武尊の墓(陵)は四つもあるのですから。
話の最後は、日本武尊は伊吹山の神に喧嘩を売ってあなどったため、祟りのような感じで足も腫れあがり、三重(ミエ)にくびれた餅のようになったため、この地を三重(県)と言うようになったそうです。
大和は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山ごもれる 大和しうるわし
と、有名な望郷歌を詠んで、日本書紀によると30歳ぐらいで亡くなりました。
昔フークと一緒に登った(伊吹山ドライブウエイでほとんどを)伊吹山の山頂には、この日本武尊の像が建っていますし、その麓のここ亀山市に能褒野墓があるのです。
返事
花水木さん:この漢字を出すのに私も苦労しました。
ヒレでは出ませんで、中学地理で習った押されてできる褶曲山脈(シュウキョクサンミャク)、
で漢字を出し、曲山脈を消して褶だけで検索すると出てきます。
褶(ヒレ)は最近の中高年女子がしてる薄い軽いマフラーの様なものですかね。