徘徊老人のひとりごと

地球上を徘徊する75歳のボケ老人のひとりごと

徘徊老人世界放浪昼寝旅ーインド・アーグラへー4月1日~3日

2012年04月11日 | 南アジア
4月1日、午後2時4分の列車でニューデリーからアーグラに向かった。

 今回の列車の旅も60歳以上のディスカウントを生かして、
 A/Cスリーパーの切符だから、快適だった。

  アーグラと言えば、タージ・マハルというくらい有名だ。
    
    一応、絵葉書的では、ありますが・・・・
    これが「タージ」です。
    実は、ワタシはこのアーグラにも7ヶ月暮らしたことがあるのだ。
    その当時は金曜日は、タージ・マハルも、アグラ城も入場無料だったのだ。
    金曜日は回教徒の安息日のためだ。
    あっ、これお墓ですからネ。(笑)
    だから金曜日になると、地元民、回教徒の人でいっぱいになったものだ。
    
    それが、今や、無料の日などないどころか、
    外国人の入場料が750ルピーだ!
    アーグラ城の入場料が250ルピー、締めて1000ルピー。
    なんだか、数字が丁度うまくいっているような気がしませんか?

    ワタシが暮らしていた頃、このアーグラの近郊の工場からの煤煙で、
    タージの白亜の大理石が煤けてきて、公害問題に発展したのだ。
    インド最大の観光資源を守るために、インド観光局は「外人」から
    金を取り、環境保全の資金にしようと考えたのだ!

    この辺の「本末転倒」がインドらしいですよね。
  
    
    
    
     一応、お決まりの記念写真(笑)

    タージ・マハルの台座に上がるには、靴を脱がなければなりません
    
    高い金を取っているので、少しは外国人を優遇しようと・・・・ 
    ヒンディー語では「外国人に限る」と書かれており
    英語では「高額チケット所有者のみ」と・・・・
    なんだか、この英語の表現の方が直球(ストレート)で胸にグサッ!(笑)

    で、ワタシの格好は上記の写真のように、どう見ても外国人ですよね。

    なのに、ワタシがこの道を進んで行くと、係員に呼び止められて
    それも丁寧な呼びとめ方ではなく、「オイ・コラ」と。
    「お前はあっちだ!」(インド人通路)
    「おら~~~外人だ!高け~~金払ったんだ!」と入場券を見せる。
      そしたら、靴をあそこに預けて、上にあがれだと。
    
     前を行く白人観光客。靴の上にオーバーシューズを履いている。
    
     オーバーシューズも貰えず、裸足のワタシ!
     同じ金を払っているのに、なぜ?
     むかつくワタシなのでありました。

     今日は涼しいから、問題ないですが、
     暑い日には、この床がフライパンのように熱くなり
     素足では歩けないくらいになります。
     だから、高い金を払っている外人観光客には、靴の上から
     ビニールのオーバーシューズを提供して、
     便宜を図ってやるということなのです。
    
     暑い時に行ってごらんなさい。
     つま先立ちで日陰にダッシュしなければ足の裏をやけどしてしまいます。
     インド人のみなさん?
     いつも素足で、慣れていますからね~~~~。(笑)
    

     タージから、徒歩でアーグラ城へ移動。
     
     このバルコニーからシャージャハン皇帝は亡くなった妃のムムターズを
     偲び、毎日
     
     タージを眺めて暮らしたのでした。
     
     アーグラ城も、あちこちに柵が設けられて、入場できない
     場所もありました。
     
     こんな具合に・・・・
     
      朝のタージは、宿泊したホテルからすぐの自然公園から
      眺めることが出来ました。
      ここも入場料を取り、外国人50ルピー、インド人10ルピー
      地元民無料とへんてこな価格設定です。
      ワタシ? 10ルピー。
     
     
     
      朝のウォーキングの格好だけはしてます。
      もう、タージ・マハルはこれで充分。

     ワタシは昔暮らした、アーグラの街を徘徊するのだ!     
     

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徘徊老人世界放浪昼寝旅ーインド・変貌するニューデリーー3月31日

2012年04月11日 | 南アジア
デリーのインデラ・ガンディー国際空港の改装とインフラの整備が完了してから
ニューデリーは劇的に変貌していると言える。
地下鉄網が郊外まで延び、どこに出かけるのも楽になった。

      
      地下鉄だ。
      あ、注意してくださいね。地下鉄は撮影禁止です。(笑)
      
      地上を走るバスも新しくなりつつある。
      前のグリーンのバスが新しいバス。後ろのバスが30年以上前から
      走っているバス。

     今回のデリー滞在は、洗濯したり、体を休めたりでのんびり
     過ごしたので、あまり外には出なかったが、
     地下鉄を使ってオールド・デリーに出かけた。
      
      
      チャンデニ・チョークを散策し
      
      ジャママスジッドまで徘徊
      
      
       人参、大根売り。人参は甘い。
      
       ジャママスジッドの階段
      
      入場料を取ると言うので、中には入らない。
      
      ジャママスジッドに続く道の雑踏

    そして、今度はオールド・デリーから、まるで外国人植民地と
    呼ばれるグルガオン近郊に行った。

    このあたりは海外企業のオフィスが立ち並び、駐在員用の
    マンションが立ち並ぶ、インドと趣が異なる雰囲気だ。
      
      最近は、日本語の情報誌も発行されている。
      香港・シンセンなみだ。
      日本人駐在員向けに、ホテルの情報もある。
      風呂付、朝食(日本食付き)などのホテルや
      当然のことに飲み屋の紹介もある。

      
      こんなマンションがあったり
      
      駅の広告にも、こんなのが・・・・
      
      オフィスのようだ。某カメラ会社のロゴが・・・・

      なるほどね、インド人が「あそこはインドではない」と言う意味が
      分からないでもない。

      ここまで行く途中にチャッタルプルという駅がある。
      ここには「新興宗教の総本山」がある。
      広大な敷地には、いくつもの寺院が並び
      学校あり、病院あり だ。
       
       
       
       
       
       近郊からトラックに乗って信者がやってくる。

      どうも、宗教は「儲かる」ものらしい。(笑)

   こうして、デリーでは、なんだか、わけのわからないうちに日々が過ぎて行き
   4月1日、ワタシはP家にお礼を言って、アーグラに向かったのでした。
    
      

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徘徊老人世界放浪昼寝旅ーインド・デリーの大家族ー3月30日

2012年04月11日 | 南アジア
デリーでは、これまた30年以上に渡って世話になっている
インド人のPさんの家に居候だ。

 この家は「典型的なジョイント・ファミリー」だ。

 30年前に、ワタシが当然のような顔をして、この家の居候をしていた時の
 家族構成は、こんなだった。

    両親(2名)、息子(6名)、息子の嫁さん(2名)、孫(4名)
    親戚の子供(2名)、ワタシの総勢17名の暮らしだ。
    この人数に時折、地方から親戚が来ることもあり、
    ワタシが居候していた時に最大で20名居たことがある。

  朝は学校に行く孫たちの食事から始まり、次に、勤めにでる者の食事、
  最後が食事係のお嫁さんの食事で、9時から10時頃になった。
  朝5時半ころから食事を作り始め、終わるのが10時だから大変だ。
  この朝食のほかに、朝起きての、「まずはチャイの一杯」があるから
  朝はてんてこ舞いだ。

  で、今はどうか?というと
  両親は亡くなり、息子たち、息子たちと言っても長男は75歳。(笑)
  その長男夫婦とその息子家族(3人)、次男、三男(未婚、65歳)、
  長女(未婚、63歳)、次女(未婚50代)の9人が一緒に暮らしている。

  そしてワタシが加わったので10名だが、
  次男の娘はニューヨークでインド人に嫁いだのだが、
  丁度、旦那が休暇を取りこの家にやって来たのでプラス3名。
  次男の長女も妹家族とワタシに会うために子どもを連れて
  連日遊びに来るのでプラス2名。
  長男(75歳)の娘の嫁ぎ先のハイデラバードから旦那が出張で
  デリーにやってきた。
  彼も挨拶にだけ訪問したつもりが、S(ワタシのこと)が来ているから
  「お前も泊まって行け」とプラス1名。
   瞬間的に家族の総数は14名となる。
      
      二階のテラスで日光浴
      
      
 
       暑くなったら、日陰のある玄関先で
      
       一番左端が長男の娘の旦那だ。
      これで、彼もワタシのことを今日から「カーカー」(おじさん)と
      呼ばなければならない。
      つまり、このファミリーの一員であることの紹介だ。
      まるで映画の『ゴッド・ファーザー』みたいだ。
      今日から、ワタシがハイデラバードに行って、彼の家に行った場合
      彼はオジサンのワタシを最大限もてなさなければならないのだ。

     その逆も真なりで、このファミリーの一員が日本に来た場合
     ワタシの家に当然のように訪れて良いのだ。

   で、今現在、長男、次男、三男とワタシが朝や夕方、テーブルを囲み
   全員老眼鏡を掛けて、本を読んだり新聞を読んだり、
   ここに長男の嫁さん、長女も加われば、6名全員老眼鏡をかけての
   座談会だ。

   もう老人ホームそのもの。(笑)

    老人だから夜は早い。(笑)

    ワタシも夜が早い。(笑)

    

            
      

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徘徊老人世界放浪昼寝旅ーインド・デリーで知人に再会ー

2012年04月11日 | 南アジア
やっと、ラダックの高度にも順応しはじめたと思ったら、もうデリーに戻る日だ。

 朝11時の飛行機でデリーのインデラガンディー国際空港に正午過ぎに到着。

 エアポート・メトロと地下鉄を乗り継いで知人宅に到着した。

 まあ、このインド人知人宅は次のブログで紹介するとして、

 前回、ジャイプルからデリー入りした後、

 デリーで35年来の日本人の知人に会いに行った。

 当時、彼は某国立O阪外語大学を卒業して某△菱商事に就職し、
  語学研修のためにインドに留学中だった。

 やはり、ワタシと同じようにサラリーマン(学生ではない)ということで
 いろいろ面白い経験をしたものだ。

 彼はニューデリーには住んでいなかったが、ニューデリに来ると
 私の寮の近くに住んでいた天才言語学者U先生の家で暮らしたりした。
 一緒に酒を飲んだり、U先生が南インドに研究にいったりすると
 家の留守番と称して、自炊したり飲んだりしたものだ。
 特に、某△菱商事というのは大商社で、海外に派遣されている人も多く
 そのため、海外に派遣されている人への福祉厚生には目を見張るべきもの
 があった。
 定期的に日本食の「缶詰」などが送られてくるのだ。
 たくわんの缶詰までだ。
 それをHさんが持ってくるのを楽しみにしていたものだ。

 その後、彼は語学研修の任期を終えて帰国し、仕事の傍ら
 某国立放送の国際局のヒンディー語ラジオ放送のモニターの仕事もしていた。

 彼は何の学歴も学閥もないワタシが帰国しても仕事がないだろうと心配してくれて
 ワタシが帰国するまで、そのアルバイトを継続し、
 ワタシが帰国後、その仕事をワタシに譲ったのだった。
 
 だから、本当は頭が上がらない恩人なのだ。

 その彼も、その後インド駐在員をした後、早期退職し
 バンガロールの大学で日本語を教える仕事に就いていた。

 その後の消息は不明だったが、ボンベイで知人に再会した時
 そのHさんは、今、デリーに居るよ、と言う事で
 突撃、会いに行った。

 彼は今や、某立○館大学インド事務所の所長をしていた。

 突然の訪問にもいやな顔をせず、昔話に花を咲かせ
    
    昼飯をゴチになった。
    「幕の内弁当」だ。
    日系企業がデリーにも沢山押し寄せ、日本食レストランも増えた。
    このレストランも続々日本人がやってくる。
    お昼時なので、旅行者ではない。
    首からIDカードをぶら下げた日本人駐在員だ。
    女性もいる。
    う~~~~ん、様変わりしたもんだね~~~。
    35年前、日本食レストランといえば、コンノート・プレースの
    「銀座」くらいのものだった。
    顔なじみになるとビールを注文すると、ティー・ポットに
    ビールを入れて持って来てくれたものだ。

    コンノート・プレイスと言えば、「リド」というキャバレーがあった。
    ここでは「ストリップ・ショー」もあるということで
    二人で見に行った。
    ところが、踊り子は、脱いでも、衣服の下にはセパレートの水着を
    着ていて、それ以上脱がないのだった。(笑)

    ガッカリしたものだ。(笑)

    Hさんから、是非ウチに泊まってくださいというのを固辞し
    
    Hさんの事務所のビルの前で記念写真を撮って別れた。
    35年の歳月はお互いの頭髪が、その歳月を物語っていた。(笑)
    
     

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