徘徊老人のひとりごと

地球上を徘徊する75歳のボケ老人のひとりごと

徘徊老人世界放浪昼寝旅ーインド・デリーで知人に再会ー

2012年04月11日 | 南アジア
やっと、ラダックの高度にも順応しはじめたと思ったら、もうデリーに戻る日だ。

 朝11時の飛行機でデリーのインデラガンディー国際空港に正午過ぎに到着。

 エアポート・メトロと地下鉄を乗り継いで知人宅に到着した。

 まあ、このインド人知人宅は次のブログで紹介するとして、

 前回、ジャイプルからデリー入りした後、

 デリーで35年来の日本人の知人に会いに行った。

 当時、彼は某国立O阪外語大学を卒業して某△菱商事に就職し、
  語学研修のためにインドに留学中だった。

 やはり、ワタシと同じようにサラリーマン(学生ではない)ということで
 いろいろ面白い経験をしたものだ。

 彼はニューデリーには住んでいなかったが、ニューデリに来ると
 私の寮の近くに住んでいた天才言語学者U先生の家で暮らしたりした。
 一緒に酒を飲んだり、U先生が南インドに研究にいったりすると
 家の留守番と称して、自炊したり飲んだりしたものだ。
 特に、某△菱商事というのは大商社で、海外に派遣されている人も多く
 そのため、海外に派遣されている人への福祉厚生には目を見張るべきもの
 があった。
 定期的に日本食の「缶詰」などが送られてくるのだ。
 たくわんの缶詰までだ。
 それをHさんが持ってくるのを楽しみにしていたものだ。

 その後、彼は語学研修の任期を終えて帰国し、仕事の傍ら
 某国立放送の国際局のヒンディー語ラジオ放送のモニターの仕事もしていた。

 彼は何の学歴も学閥もないワタシが帰国しても仕事がないだろうと心配してくれて
 ワタシが帰国するまで、そのアルバイトを継続し、
 ワタシが帰国後、その仕事をワタシに譲ったのだった。
 
 だから、本当は頭が上がらない恩人なのだ。

 その彼も、その後インド駐在員をした後、早期退職し
 バンガロールの大学で日本語を教える仕事に就いていた。

 その後の消息は不明だったが、ボンベイで知人に再会した時
 そのHさんは、今、デリーに居るよ、と言う事で
 突撃、会いに行った。

 彼は今や、某立○館大学インド事務所の所長をしていた。

 突然の訪問にもいやな顔をせず、昔話に花を咲かせ
    
    昼飯をゴチになった。
    「幕の内弁当」だ。
    日系企業がデリーにも沢山押し寄せ、日本食レストランも増えた。
    このレストランも続々日本人がやってくる。
    お昼時なので、旅行者ではない。
    首からIDカードをぶら下げた日本人駐在員だ。
    女性もいる。
    う~~~~ん、様変わりしたもんだね~~~。
    35年前、日本食レストランといえば、コンノート・プレースの
    「銀座」くらいのものだった。
    顔なじみになるとビールを注文すると、ティー・ポットに
    ビールを入れて持って来てくれたものだ。

    コンノート・プレイスと言えば、「リド」というキャバレーがあった。
    ここでは「ストリップ・ショー」もあるということで
    二人で見に行った。
    ところが、踊り子は、脱いでも、衣服の下にはセパレートの水着を
    着ていて、それ以上脱がないのだった。(笑)

    ガッカリしたものだ。(笑)

    Hさんから、是非ウチに泊まってくださいというのを固辞し
    
    Hさんの事務所のビルの前で記念写真を撮って別れた。
    35年の歳月はお互いの頭髪が、その歳月を物語っていた。(笑)
    
     

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