かつては旧暦の4月3日に行われていた五條市南阿田の流し雛。
現在は4月第一日曜日(昭和48年より)になった。
この日は村の農休日。
「休まんと罰金や」というて、絶対に集まれる日を行事の日としたのである。
南阿田では戦前まで伝統の吉野川流し雛を守ってきた。
戦中、戦後も途絶えていた村の行事を昭和44年に復活された亀多桃牛氏の意思を継いで今も行っている。
流し雛を流す吉野川は清流。
流れ、流れて和歌山の淡島へと注いでいく。
南阿田西方数キロメートルからは吉野川は名を替えて紀ノ川となる。
流れる川の水は同じでも地域によって呼称がかわる。
その淡島には加太の淡嶋神社がある。
婦人病やお雛さんの神さんとして崇められている。
吉野川・紀ノ川を通じて生活文化が交流した。
源流から切り出された山の木は五條に着いた。
そこでは材木商が盛んであった。
積み換えられた材木は大型船に移されて大阪湾に沿って住吉大社前の浜から難波の津(港)に着いたという。
川に沿った道は紀州から伊勢に繋がる参勤交代の幹道でもある。
川と道を行き交う交易の文化。
一説によれば加太の淡嶋神社に祀られた「あはしまさま」が流し雛に関係しているようだ。
「あはしまさま」は天照大御神の娘(六女)が嫁がれて住吉大神の妃となった。
その後、婦人の下の病いのために淡島に流されたという妃神の祭日が桃の節句の三日と重なって雛祭りと結びついた。
このことは後世に加えられた伝承であろう。
同神社の祭神は少彦名命。
医薬の神さんだ。
薬と婦人病が結びついたと思われるのである。
やがて江戸時代になれば、「淡島願人(がんじん)」と呼ばれる修行者が、全国に淡島明神の功徳縁起を説き広めるために妃神の姿絵を入れた箱を背負って行脚した。
婦人にご利益があると伝えられて広まった淡島信仰が五條に流れ着いた。
旧暦4月3日の桃の節句にお雛さんを祭る女性たち。
淡島信仰を支える命の川は禊の川でもある。
その川に千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める。
女児による流し雛は亀多桃牛氏(故人)が主催していた俳句会同志らの後押しもあって復活した。
ところが少子化は時代の流れ。
子供会の主催事業として継承されてきたが運営できなくなった。
それでは村の行事が再び廃れる。
そんな危機感から自治会運営にしてはどうかと相談があった。
自治会組織ともなれば役員が替ることもある。
それでは継続するのも支障がでるだろうと保存会を立ち上げて現在に至る。
かつての南阿田の流し雛はヒトカタ(人形)流しであった。
紙で作ったヒトカタは折り紙。
女性が居る家はそれを作って、めいめいが川へ流していた。
前日の夕刻か、当日の朝だったそうだ。
病いを封じて穢れを祓い、心身の健康を願う女人の数のヒトカタを流していた。
淡島信仰が根付いたその風習行為は女性だけだったという。
当時は晴れ着もない、素朴な普段着で流していたと流し雛保存会会長は語る。
大和郡山市に住む岡山出身のFさんの話では鳥取県のモチガセ(※用瀬)でも流し雛をされているという。
そこでは紙のヒトカタを川に流すと話す。
ヒトカタを丸い形のサンダワラに乗せて流すのはひと月遅れの4月3日。
村の人がめいめいにしていたという。
その話の様相と似かよっているかつての南阿田の流し雛であった。
現在の流し雛の主役は小学6年生までの女児。
赤ちゃんはともかく歩けるようになった3歳児から参加する。
女の子の行事であるゆえ晴れ着を纏う。
訪れた大勢のカメラマンの要請に応じて晴れ姿を撮る人も多い。
ウチ孫では少ないからとソト孫も参加される村の行事は賑わいをみせる。
始めるにあたって浄土宗源龍寺に登って法要を勤められる。
かつてはそれもなかった。
形式を整えるようになったのだ。
それは川に張られた結界の注連も同様である。
大豆で象られたお顔のお内裏さまとお雛さまを飾った内陣。
その手前には多数の流し雛が置かれている。
流し雛は二種類ある。
川へ流す流し雛と少し小さめの飾り雛だ。
竹の皮に貼りつけた折り紙のお雛さん。
印刷した寛永通宝銭も張っている竹皮はお雛さんの舟。
一か月前ぐらいから地区の婦人たちが寄って作った舟は、いずれも購入(200円、300円)することができる。
一般の人も流すことができる村の温かい配慮なのだ。
保存会の意向によって南阿田地区以外の子たちも参加を認めている。
大勢来てほしいと願って保育所へも案内している。
この年は10人も集まった。
本尊阿弥陀如来に雛ながし表白を唱える住職の法要。
並んだ女児たちは静かに手を合わせる儀式である。
それが終われば吉野川に向かう。
集落を抜けて畑が広がる畦道を歩む。
素朴で、昔のままの風情をいつまでも残しておきたいという保存会の意思は微塵に打ち砕かれる行為があった。
女児たちが歩む姿を捕えたいと群がるカメラマン。
何人ものレンズがその姿を納めようといている。
まるで高射砲のように見えた。
その人たちが並ぶ目の前に菜の花が・・・。
畦道にどこからか抜いてきた菜の花を植えていたのだ。
行事を終えてその痕跡をみた村の人はカンカンであった。
残念な行為に怒り心頭である。
村の行事を台無しにする行為は、敢えて代弁する形で書かざるを得ない。
河原に着けば禊の吉野川。
お雛さんを流す前に作法をする子供たち。
結界の注連下で年長の子が願文を詠みあげる。
「流し雛さま 私たちの今までの つみけがれを 吉野川の清流の上に おとき下さいまして 清く 正しく 明るく 健やかに育ちますよう お願いいたします どうか私たちの 切なる願いを おきき下さいませ」と。
昔はめいめいがしていたという流し雛。
これも形式化されたのである。
岸辺に並んだ子供たちは抱えてきた流し雛をそっと流す。
祈りを込めて船を浮かべて流す。
一般の婦人たちも岸辺から流していく。
その姿に手を合わせるご婦人。
年齢は違っても健康や安産を願う思いは同じなのであろう。
穢れを乗せた竹の小舟に託した願いは下流に流れていった。
(H24. 4. 1 EOS40D撮影)
現在は4月第一日曜日(昭和48年より)になった。
この日は村の農休日。
「休まんと罰金や」というて、絶対に集まれる日を行事の日としたのである。
南阿田では戦前まで伝統の吉野川流し雛を守ってきた。
戦中、戦後も途絶えていた村の行事を昭和44年に復活された亀多桃牛氏の意思を継いで今も行っている。
流し雛を流す吉野川は清流。
流れ、流れて和歌山の淡島へと注いでいく。
南阿田西方数キロメートルからは吉野川は名を替えて紀ノ川となる。
流れる川の水は同じでも地域によって呼称がかわる。
その淡島には加太の淡嶋神社がある。
婦人病やお雛さんの神さんとして崇められている。
吉野川・紀ノ川を通じて生活文化が交流した。
源流から切り出された山の木は五條に着いた。
そこでは材木商が盛んであった。
積み換えられた材木は大型船に移されて大阪湾に沿って住吉大社前の浜から難波の津(港)に着いたという。
川に沿った道は紀州から伊勢に繋がる参勤交代の幹道でもある。
川と道を行き交う交易の文化。
一説によれば加太の淡嶋神社に祀られた「あはしまさま」が流し雛に関係しているようだ。
「あはしまさま」は天照大御神の娘(六女)が嫁がれて住吉大神の妃となった。
その後、婦人の下の病いのために淡島に流されたという妃神の祭日が桃の節句の三日と重なって雛祭りと結びついた。
このことは後世に加えられた伝承であろう。
同神社の祭神は少彦名命。
医薬の神さんだ。
薬と婦人病が結びついたと思われるのである。
やがて江戸時代になれば、「淡島願人(がんじん)」と呼ばれる修行者が、全国に淡島明神の功徳縁起を説き広めるために妃神の姿絵を入れた箱を背負って行脚した。
婦人にご利益があると伝えられて広まった淡島信仰が五條に流れ着いた。
旧暦4月3日の桃の節句にお雛さんを祭る女性たち。
淡島信仰を支える命の川は禊の川でもある。
その川に千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める。
女児による流し雛は亀多桃牛氏(故人)が主催していた俳句会同志らの後押しもあって復活した。
ところが少子化は時代の流れ。
子供会の主催事業として継承されてきたが運営できなくなった。
それでは村の行事が再び廃れる。
そんな危機感から自治会運営にしてはどうかと相談があった。
自治会組織ともなれば役員が替ることもある。
それでは継続するのも支障がでるだろうと保存会を立ち上げて現在に至る。
かつての南阿田の流し雛はヒトカタ(人形)流しであった。
紙で作ったヒトカタは折り紙。
女性が居る家はそれを作って、めいめいが川へ流していた。
前日の夕刻か、当日の朝だったそうだ。
病いを封じて穢れを祓い、心身の健康を願う女人の数のヒトカタを流していた。
淡島信仰が根付いたその風習行為は女性だけだったという。
当時は晴れ着もない、素朴な普段着で流していたと流し雛保存会会長は語る。
大和郡山市に住む岡山出身のFさんの話では鳥取県のモチガセ(※用瀬)でも流し雛をされているという。
そこでは紙のヒトカタを川に流すと話す。
ヒトカタを丸い形のサンダワラに乗せて流すのはひと月遅れの4月3日。
村の人がめいめいにしていたという。
その話の様相と似かよっているかつての南阿田の流し雛であった。
現在の流し雛の主役は小学6年生までの女児。
赤ちゃんはともかく歩けるようになった3歳児から参加する。
女の子の行事であるゆえ晴れ着を纏う。
訪れた大勢のカメラマンの要請に応じて晴れ姿を撮る人も多い。
ウチ孫では少ないからとソト孫も参加される村の行事は賑わいをみせる。
始めるにあたって浄土宗源龍寺に登って法要を勤められる。
かつてはそれもなかった。
形式を整えるようになったのだ。
それは川に張られた結界の注連も同様である。
大豆で象られたお顔のお内裏さまとお雛さまを飾った内陣。
その手前には多数の流し雛が置かれている。
流し雛は二種類ある。
川へ流す流し雛と少し小さめの飾り雛だ。
竹の皮に貼りつけた折り紙のお雛さん。
印刷した寛永通宝銭も張っている竹皮はお雛さんの舟。
一か月前ぐらいから地区の婦人たちが寄って作った舟は、いずれも購入(200円、300円)することができる。
一般の人も流すことができる村の温かい配慮なのだ。
保存会の意向によって南阿田地区以外の子たちも参加を認めている。
大勢来てほしいと願って保育所へも案内している。
この年は10人も集まった。
本尊阿弥陀如来に雛ながし表白を唱える住職の法要。
並んだ女児たちは静かに手を合わせる儀式である。
それが終われば吉野川に向かう。
集落を抜けて畑が広がる畦道を歩む。
素朴で、昔のままの風情をいつまでも残しておきたいという保存会の意思は微塵に打ち砕かれる行為があった。
女児たちが歩む姿を捕えたいと群がるカメラマン。
何人ものレンズがその姿を納めようといている。
まるで高射砲のように見えた。
その人たちが並ぶ目の前に菜の花が・・・。
畦道にどこからか抜いてきた菜の花を植えていたのだ。
行事を終えてその痕跡をみた村の人はカンカンであった。
残念な行為に怒り心頭である。
村の行事を台無しにする行為は、敢えて代弁する形で書かざるを得ない。
河原に着けば禊の吉野川。
お雛さんを流す前に作法をする子供たち。
結界の注連下で年長の子が願文を詠みあげる。
「流し雛さま 私たちの今までの つみけがれを 吉野川の清流の上に おとき下さいまして 清く 正しく 明るく 健やかに育ちますよう お願いいたします どうか私たちの 切なる願いを おきき下さいませ」と。
昔はめいめいがしていたという流し雛。
これも形式化されたのである。
岸辺に並んだ子供たちは抱えてきた流し雛をそっと流す。
祈りを込めて船を浮かべて流す。
一般の婦人たちも岸辺から流していく。
その姿に手を合わせるご婦人。
年齢は違っても健康や安産を願う思いは同じなのであろう。
穢れを乗せた竹の小舟に託した願いは下流に流れていった。
(H24. 4. 1 EOS40D撮影)