マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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丹波市中之町の納め伊勢講

2013年11月08日 08時26分37秒 | 天理市へ
「天照皇太神宮」の大きな文字を中央に配した大鏡をご神体として崇めてきた天理市丹波市の中之町の伊勢講。

講中にとっては見納めになる大鏡である。

重さは約29kg、直径が約93・6cmで、側面の厚さは3・2cmもある銅製と思われる大きな鏡。

右が「和山邉郡丹波市 明和八年卯歳(1771)」で、左には「六月吉祥日 摂待所連主」の刻印がある。

「連主」は「連中」の誤印であろうか。

おかげ参りの道筋にあった丹波市。

そこに摂待所を設けて伊勢参りをする人々を接待していた。

伊勢参りをしていた駿河の国、(紀州)伊都郡新田村、紀州の国のナグラ村など、商人たちから寄付を募って製作したと考えられる大鏡である。

木製の台座は何らかの建物の転用財であったかもしれない。

台座を入れた高さは1m50cmで、幅が90cmである。

古くは寛永十五年(1638)・慶安三年(1650)に勃発したとされる伊勢のおかげ参り。

その後の寛文元年(1661)・元禄十四年(1701)を経て、本格的なおかげ参りは宝永二年(1705)であった。

2ヶ月間に亘ってお伊勢さんを参った参詣者は300万人をも超える爆発的な増加である。

享保三年(1718)・八年・十五年・寛延元年(1748)・宝暦五年(1755)からしばらく間をおいた明和八年(1771)に再びピークを迎える。

同年に製作された大鏡はくすんでいるがれっきとした鏡体である。



周縁部には小さな穴が11個ある。

穴の広さはすべて同じではなく若干に違いがある。

大鏡を拝見していた奈良県立民俗博物館の鹿谷勲氏は「棒のようなものを挿していたのでは」と話す。

断定はできないが、放射状に発光する棒状の光背造りであったかもしれない。

誰が置いたかも判らず摂待所にあった大鏡を、一旦は石上神宮に預けるも天保元年(1830)のおかげ参りが流行った際に再び摂待所に置くことにした。

そうすれば伊勢参りの人たちが大量に賽銭を置いていったと伝わる。

その賽銭をもとにして建てたのが市座神社の境内にある大神宮の石塔である。



「天保庚寅元年(1830)十二月吉日 世話方人別名連」に丹波市の米屋・柴屋・鍵屋・戸屋・油屋・紺屋・車屋・堺屋・鋸屋などの商人や隣村の富堂村・嘉幡村の名も見られる大神宮。

施主には豊井村・佐保庄村・石上がある。

中之町伊勢講中の記録によれば『・・・いつよりか来らん御八咫鏡の形に似たるを施行処に止まる 自是人ゝ不思議□(な)□(る) 於もひをなしつこの出・・・いれ置希流やらんと尋問ふといへども更に人の□□より を□□むなしく止メ置き流・・是より十二三丁山の手に布留社とて□宮あり・・・今年文政十三庚寅年(1830)六十餘年に当り 三月廿八九年より阿波国よりおかけ参り騒がしくて閏三月中旬諸国騒処・・』とある。

史料を訳された天理大名誉教授・天理参考館学芸員の近江昌司によれば「おかげ参りで大鏡を持って行くのは珍しく、書いてある人たちが運んできて、重くて置いていったか、金がなくなって譲ったのかもしれない」と話す。

それより一か月前のことである。

毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、奈良新聞の各社が報道した記事に中之町の伊勢講・大鏡を紹介していた。

鏡には小さな文字が彫ってあった。

前述した駿河の国、(紀州)伊都郡新田村、紀州の国のナグラ村などの商人の名が連なる刻印である。

新聞報道は「大坂心斎町」「長堀」「紀州伊東郡ハシ本町」などの地名や「カメや」「フジやサノ」「木綿」「源七」などの屋号や人名があったと伝える。

その報道を目にした男性Kさんが訪れていた市座神社の社務所。



トーヤのHさんとともにライトペンを当てて探している刻印は「長堀」に「カメヤ」だ。

「カメヤ」の先祖は「酢の造り蔵」を営んでいたと話すが短時間の検出に結果はでなかった。

中之町伊勢講は2月、6月、11月の各月にトーヤ家で「天照皇大神神宮」、「豊受大神宮」などの掛軸を掲げて営みをする他、7月16日には市座神社前の通りに斎壇を組んでこの大鏡を祭っていた。

朝にお参りを済ませて最後の直会の最中であった。

それから数時間後には講中の神具など一切合財を天理市の生涯学習課に寄贈する。

これまでお勤めをしてきた8人の講中は、高齢化によって継続することが難しくなり、この日を最後に解散される。



その件を最後に記帳して役所が到着する間、最後のお勤めに二礼二拍手一拝された。

講中のHさんは「神事を続けられないのは残念で、先人に申し訳ない。皆に知ってもらえるよう、市は将来的に鏡を展示してほしい」「今後は各家で伊勢信仰を伝えていきたい」と話した。

江戸時代に流行ったおかげ参りの信仰をいまに伝える貴重な史料はトラックに乗せて出発した。見届ける私たちも手を合わせて見送った。

「大正元年十一月拾六日 施主○○○○」、「昭和弐拾弐年弐月拾六日 施主○○○)」と記された二冊の「伊勢講名簿」の始めには「目出度甫」の文字がある。

二冊ともに書いてあったこの文字はどういう意味であるのか。

「たいへんめでたいはじめ」という意であるのか、聞きそびれた。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)